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第6話:指差して笑うだけの「普通」

九月。うだるような残暑がアスファルトを焦がし続ける東京。

 およそ一ヶ月ぶりに扉を開けた二年三組の教室は、相変わらず「いかにも健全で、ありきたりな感性」の博覧会だった。

「海行った時の写真、盛れすぎてヤバくない?」

「わかるー! 今度また同じメンバーでテーマパーク行こうよ!」

 日焼けした肌を見せ合い、いかに自分たちの夏休みが充実していたかを大声で確認し合うクラスメイトたち。彼らにとって、他人の目から見て「リア充」であることこそが絶対的な正解であり、疑いようのない「普通」なのだ。

 かつての僕なら、適当に相槌を打ちながらその輪の端っこに寄生していただろう。波風を立てず、モブとして息を潜める。それが一番安全で賢い生き方だと信じていたから。

 でも、今の僕には、そのひどく均質化された笑い声が、ひどく空虚なノイズにしか聞こえなかった。

 僕の視線は、自然と窓際の最後列を探していた。

 如月詩はそこにいた。周囲の浮かれた空気など一切存在しないかのように、大きなヘッドホンで耳を塞ぎ、ノートに向かって一心不乱にペンを走らせている。

 あの日、下北沢の薄暗い地下スタジオで、僕にだけ見せてくれた不器用で痛々しい弱音。それをひた隠しにして、彼女は今日もたった一人で、見えない世界と戦うための「歪な音楽」を紡いでいるのだ。

「……あ、如月さんまたブツブツ言ってる」

「マジで世界線違うよね。関わらんとこ」

 前の席の女子たちが、如月をチラリと見てクスクスと笑う。

 こんなのは普通じゃないって、自分たちとは違うものを指差して笑っているだけで、満足して終わっていく日常。……それで、本当に大丈夫なのだろうか。誰かの真似事みたいな感性で群れて、自分自身の心の中に手を突っ込んで感情を引きずり出すことすらできないまま、大人になっていく。

 そんな「普通」の方が、よっぽど不気味で恐ろしいと、今の僕は知っている。

 僕は立ち上がり、迷うことなく如月の席へと歩き出した。

「如月」

 僕が声をかけると、教室の空気がほんの少しだけピタリと止まったのがわかった。

 如月は驚いたようにヘッドホンをずらし、僕を見上げた。

「……何、高坂」

「これ。昨日スタジオで忘れてた、変換プラグ。鞄に入ってたから」

 僕はポケットからプラグを取り出し、彼女の机の上に置いた。

 その瞬間、クラス中の視線が僕たちに突き刺さるのを感じた。

「え、高坂って如月さんと仲良いの?」

「うわ、マジか。なんか意外っていうか……感性移ったんじゃね?」

 リーダー格の男子が、ニヤニヤしながらわざと大きな声で言った。それは明確な嘲笑だった。普通じゃない側の人間を、安全圏から石を投げてからかう、いつもの儀式。

 如月は顔を強張らせ、反射的に僕から距離を取ろうと身を縮めた。

「……あんた、バカなの。教室で話しかけるなって言ったでしょ」

 彼女が小声で吐き捨てる。僕が「普通の変」の烙印を押され、彼らの標的になるのを恐れているのだ。彼女は、ちゃんとしているつもりなのに、いつもこんな風に不器用な拒絶しかできない。

「なんで?」

 僕は、クラスメイトの嘲笑も、如月の拒絶も、すべてを無視して真っ直ぐに彼女の目を見た。

「別に、普通だろ。忘れ物渡しただけだし」

 そして、冷やかす男子たちの方をゆっくりと振り返った。

「感性が移ったっていうか……俺は、誰かの真似して馬鹿みたいに流行りものを消費してるだけの奴らより、如月の作るものの方がずっとすげえと思ってるから。ただそれだけだよ」

 教室が、シンと静まり返った。

 誰かを攻撃することでしか結束できない「ありきたりな感性」は、真っ向から肯定の言葉をぶつけられると、ひどく脆い。彼らは気まずそうに視線を泳がせ、やがて「なんだよ、マジレスかよ」とぼやいて散っていった。

 僕は再び如月に向き直った。彼女は、目を丸くしてポカンと僕を見上げていた。

「じゃ、今日の放課後、また駅前の楽器屋な」

「……勝手に決めないでよ」

 放課後。

 神田川沿いの裏路地を、僕たちは並んで歩いていた。

 如月は、教室を出てからずっと黙りこくっている。夕暮れのオレンジ色の光が、彼女の艶のない黒髪を淡く染めていた。

「……あのさ」

 不意に、如月が口を開いた。

「高坂、あんなこと言って、後悔しない? クラスで浮くよ。あたしと同じ、変なやつだと思われる」

「別にいいよ。誰かが言う変なんて、せいぜいたかが普通の変だ。……それに」

 僕は歩みを止め、彼女に向き直った。

「俺はもう、お前が笑われるのを黙って見てるだけのモブには戻りたくないんだ。……この先に何があっても、俺がお前を庇うから。ずっと、守ってあげるから」

 こんなクサい台詞、昨日の僕なら絶対に言えなかった。でも、彼女の抱える地獄みたいな痛みを、少しでも軽くできるのなら、僕はどんなにカッコ悪くても構わなかった。

「……っ、バカじゃないの」

 如月は顔を真っ赤にして俯き、手元の鞄の紐をギュッと握りしめた。

「誰が守ってなんて頼んだのよ。あたしは一人で大丈夫なのに。ちゃんとしてるつもりなのに、高坂のせいでいつも調子がおかしくなる……」

「怒ってる?」

 僕が覗き込むように聞くと、彼女はプイッと顔を背けた。

「……怒ってる。別に、普通に」

 その耳の裏が、夕陽よりも赤く染まっているのを、僕は見逃さなかった。

 たまらなく愛おしい。

 この不格好で、強がりで、誰よりも純粋な女の子が、僕の隣で少しだけ頬を緩めている。その事実だけで、僕の世界はどんな一億再生の動画よりも、鮮やかに輝いていた。

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