第5話:笑える、神かよ
八月。アスファルトが陽炎で歪む、残酷なほどに眩しい東京の夏。
世間の「一般的な高校生」たちが、海だのテーマパークだのと、いかにも健全で輝かしい青春を謳歌している中、僕の夏休みは、下北沢の入り組んだ路地裏にある、カビと埃の匂いがする地下のレンタルスタジオに吸い込まれていた。
「……またここ、コード進行ズレてる。ちゃんとしてるつもりなのに、なんでいつもこう、おかしくなるのかな」
防音材が剥き出しになった三畳ほどの狭いコントロールルーム。パイプ椅子の上であぐらをかきながら、如月詩はパソコンの画面を睨みつけて爪を噛んでいた。
お茶の水で機材を買ったあの日から、僕たちは時々、こうして学校の外で会うようになっていた。彼女が一人でこもって曲を作るための安スタジオに、僕が勝手についてきているだけだ。彼女は「邪魔」だの「息が詰まる」だのと文句を言いながらも、僕を追い出すことはしなかった。
「ズレてても、俺はそのメロディ、好きだけどな」
僕がコンビニで買ってきた冷たいお茶を差し出すと、如月は無言でそれを受け取り、喉を鳴らして飲んだ。
「高坂が良くても、世間はそうじゃないの」
彼女はマウスを乱暴にクリックし、ネットの動画サイトの画面を開いた。そこには、最近バズっているという同世代のクリエイターのページが表示されていた。
「ほら、これ。適当なコードに、誰でも共感できるような薄っぺらい言葉を乗せて、ちょっと病んでる風を装ってるだけ。でもコメント欄は絶賛の嵐。みんな、こういう『理解しやすい変さ』を求めてるんだよ」
如月の声には、隠しきれない苛立ちがこびりついていた。
「大人はよく言うよね。『人と違うのが普通なんだよ』とか『君は少しズレてるからこそ、光る個性がある。その個性を大事にしなさい』とか。……ほんと、笑える。神様にでもなったつもりなのかな」
彼女は吐き捨てるように言った。
個性なんて、そんな綺麗なリボンで包装できるようなものじゃない。彼女の中で渦巻いているのは、もっとドロドロとした、行き場のない怒りや悲しみ、社会の「普通」に対する強烈な違和感だ。それを「個性」という便利な言葉で枠にはめられ、安全圏から評価されることが、彼女にとっては耐え難い屈辱なのだ。
「あたしの作る音は、そういうのじゃない。もっと……聴いたやつの胸ぐらをつかんで、無理やりその心の中に手を突っ込んで、隠してる本音を引きずり出すような、そういう暴力的なものなの。でも、それを形にしようとすると、どうしても不協和音になる。……普通がないと、ただのノイズになっちゃう」
普通があるから苦痛なのに、普通を完全に無視すれば、誰にも届かないノイズになってしまう。
ちゃんとしてるのに、いつもおかしくて。それでも、彼女にはこれしか、自分を証明する方法がなかった。
画面の光に照らされた彼女の横顔は、ひどく疲れ切っていて、今にも泣き出しそうに見えた。
棘だらけで、誰の言葉も跳ね除けてきた彼女の、初めて見せた明確な弱音。
僕は立ち上がり、彼女が座るパイプ椅子のそばに膝をついた。
視線を同じ高さに合わせる。
「……一億再生なんて、いらないだろ」
静かな地下室に、僕の声が響いた。
「誰にでもわかる、どこにでもあるような歌声で、ありきたりな感性を歌えば、確かにたくさんの人が『大丈夫だ』って安心するかもしれない。でも、如月の歌は、そういうんじゃない。お前が吐き出してるのは、もっとどうしようもなく人間臭くて……地獄みたいに再生を繰り返す、負のエネルギーの塊だ」
如月は息を呑み、黒い瞳で僕を見つめ返した。
「俺は、そのエネルギーに救われたんだ。お前のその不器用で、怒ってて、おかしい歌が……誰よりも俺の心の中に手を突っ込んで、俺を引きずり出してくれた。だから、誰かがお前のことをただの『変』だって指差して笑っても、俺だけは絶対に笑わない」
心臓が、早鐘のように打っていた。
こんな気障な台詞、普通の高校生である僕の人生には全く縁のないものだ。でも、口に出さずにはいられなかった。
たまらなく、愛おしいから。
この薄暗い地下室で、たった一人で世界と戦いながら、傷だらけで音楽を紡ぎ続けるこの女の子が。
「……高坂って、ほんと……変なやつ」
如月は少しだけ震える声でそう言うと、両手で顔を覆った。
ヘッドホンの隙間から見える彼女の耳が、真っ赤に染まっているのがわかった。
「……怒ってる?」
僕が意地悪く尋ねると、彼女は顔を覆ったまま、首を横に振った。
「怒ってない。……別に、普通」
くぐもった声の奥で、彼女が少しだけ笑ったような気がした。
その小さな変化が、僕の胸を締め付ける。この先に何があっても、どれだけ彼女が世間とズレていようとも、僕はこのまま彼女のそばにいて、この不器用な笑顔をずっと守ってあげたい。
僕は、彼女が顔を上げるのを待ちながら、地下室に微かに響くエアコンの駆動音に耳を澄ませていた。
外の狂ったような猛暑など嘘のように、ここは僕たち二人だけの、安全で、特別に歪んだ、けれど何よりも居心地の良い世界だった。




