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第4話:せいぜいたかが、普通の変

七月。期末テストが終わった直後の東京は、梅雨明けを急かすような重く湿った空気に包まれていた。

 文化祭のあの日、旧校舎の視聴覚室で彼女の歌声を聴いて以来、僕たち――高坂悠人と如月詩の間の空気は、ほんの少しだけ変わった。相変わらず教室では言葉を交わさない。けれど、ふとした瞬間に視線が絡むと、彼女は面倒くさそうに目を逸らしながらも、以前のような完全な拒絶の壁を立てることはなくなった。

 放課後、ホームルームが終わるや否や鞄を掴んで教室を出て行く彼女の背中を、僕は思い切って追いかけた。

「如月!」

 昇降口で声をかけると、彼女は首にかけていたヘッドホンをずらし、怪訝な顔で振り返った。

「何。高坂」

「その……今日、これからどこか行くの?」

「……お茶の水。機材のパーツと、新しいケーブル見に行くだけだけど」

 お茶の水。楽器店が軒を連ねる、音楽をやる人間にとっての聖地だ。

「俺も、行っていいかな」

 口から出た言葉に、自分でも驚いた。如月も目を丸くして、それからふいっと視線を逸らした。

「……勝手にすれば。あたしは自分の見たいものを見るだけだから、高坂のこと構わないよ」

「うん、それでいい」

 こうして、僕たちは初めて学校の外で、並んで歩くことになった。デートなんて甘い言葉で呼べる雰囲気では到底ない。それでも、同じ電車に揺られ、東京の雑踏の中を彼女の隣で歩いているという事実だけで、僕の心臓は少しだけ速く脈打っていた。

 お茶の水の駅を降りると、学生やサラリーマンの波に混じって、ギターケースを背負った若者たちが目についた。駅前の広場では、アコースティックギターを持ったストリートミュージシャンが、流行りの恋愛ソングを弾き語りしている。

 いかにも健全で、耳障りの良いメロディ。誰も傷つけない、ありきたりな感性で作られたその歌に、道行く人は足を止め、手拍子を送っていた。

 如月は、その光景を冷やめた瞳で一瞥した。

「ああいうの、どこにでもあるから安心するんだろうね」

 ポツリと、彼女が呟く。

「誰かの真似事みたいに綺麗に整えられた感情。あんなの、どこにでもあるから『大丈夫』って思えるんだよ。大衆は、自分が理解できないものを極端に怖がるから」

 彼女の声には、諦めと、ほんの少しの苛立ちが混じっていた。

 僕たちは人波を抜け、古いビルの中にある、マニアックな機材が所狭しと並ぶ薄暗い店へと入った。如月は水を得た魚のように、複雑な配線のケーブルやシンセサイザーのツマミを真剣な目で吟味し始めた。その横顔は、教室で見せる不機嫌な顔とは全く違う、純粋で熱を帯びたものだった。

 小一時間ほど店を巡り、彼女が目当てのパーツを買い終えた頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。

 僕たちは神田川沿いのガードレールに寄りかかり、自販機で買った缶コーヒーを開けた。

「……退屈だったでしょ」

 缶コーヒーのプルタブを弄りながら、如月がぽつりと言った。

「別に。如月が真剣に選んでるの見るの、面白かったし」

「嘘ばっかり」

 如月は自嘲するように短く息を吐いた。

「あたし、本当に普通じゃないから。自分でもわかってる。あの駅前で歌ってた人みたいに、ちゃんとしてるつもりで生きたいのに、いつもどこかでおかしくなって、ズレていくの。そのズレを無理やり『個性』なんて言葉で片付けようとする大人もムカつくけど……結局、あたしにはこういう歪な表現しか残されてない」

 彼女は、川面を走る電車の光を見つめながら言葉を絞り出した。

「こんなのは普通じゃないって、みんな指差して笑う。それで終わっていく。……あたし、このままで大丈夫なのかなって、時々、わからなくなる」

 強がって、周囲を拒絶しているように見えて、彼女はずっと足掻いていたのだ。「普通」という強固な枠組みの中で、息継ぎの仕方もわからずにもがいている。

「大丈夫だよ」

 僕は、まっすぐに彼女の横顔を見て言った。

「誰かが言う『変』なんて、せいぜい自分たちの理解の範疇を超えたものに貼る、ただの都合のいいレッテルだろ。たかが普通の変だ。……如月は、如月のままでちゃんとしてるよ」

 如月が、ハッとしたように僕を見た。

 少しだけ、彼女の目元が赤くなっているように見えた。

「……なによそれ。慰めのつもり?」

「本音。俺は、駅前でありきたりな歌を聴いて安心してる奴らより、自分の地獄みたいな感情と向き合ってる如月の方が、ずっと人間らしくて好きだ」

 言ってしまってから、僕は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。

 如月は目を丸くしたまま固まり、やがて、顔を真っ赤にして僕から視線を逸らした。

「……怒ってる?」

 僕が恐る恐る尋ねると、彼女は持っていた缶コーヒーをギュッと握りしめ、

「怒ってる。……別に、普通に」

 と、少しだけ震える声で返した。

 それは、僕が初めて見た彼女の「照れ隠し」だった。

 張り詰めていた負のエネルギーが、ほんの少しだけ解け、等身大の不器用な女の子の顔が覗いた瞬間だった。その不格好で、だけどたまらなく愛おしい横顔を、僕は息を呑んで見つめていた。

 この先に何があっても。

 彼女が世界から指を差されて笑われるようなことがあったとしても。

 僕はずっと、この少しだけおかしくて、誰よりも純粋な彼女のそばで、その笑顔を守ってあげたい。

 神田川を吹き抜ける夏の夜風が、僕の心の奥に芽生えた確かな熱を、優しく撫でていった。

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