第3話:地獄再生可能なエネルギー
六月。文化祭当日の校内は、むせ返るような熱気と、安っぽいワッフルの甘い匂い、そしてスピーカーから割れた音で流れる流行りのポップスに支配されていた。
僕たち二年三組の「レトロポップなカフェ」は、皮肉なことに大盛況だった。
客を呼んだのは、パンケーキの味でも、女子たちの可愛いメイド服でもない。入り口に立てかけられた、あの如月詩が描いた禍々しくも美しい「呪われた極彩色の看板」だった。
「なにこれ、めっちゃエモくない?」
「病みかわってやつ? とりあえず写真撮っとこ!」
廊下を通りがかる他クラスの生徒たちが、次々とスマートフォンを向ける。彼らにとって、如月が身を削るようにして描いたあの絵は、ただの「映える消費物」でしかない。誰も彼女の痛切な叫びなど理解していないし、理解しようともしていない。いかにも健全な感性を持った人間たちは、異質なものを安全な場所から消費して笑うのが好きなのだ。
僕は接客のシフトをこなしながら、無性に苛立っていた。
教室のどこを見渡しても、あの大きなヘッドホンを首にかけた黒髪の少女の姿はなかった。シフト表には彼女の名前もあったはずだが、誰も彼女の不在を気に留めていない。むしろ「空気読めない如月さんがいなくて清々する」くらいの空気が漂っていた。
「……ちょっと、トイレ行ってくる」
僕はエプロンを外し、クラスメイトの返事も聞かずに教室を飛び出した。
人波をかき分け、喧騒の渦から逃れるように旧校舎へと向かう。普段は使われていない旧校舎の廊下はひんやりとしていて、遠くで響く体育館のバンド演奏が、まるで別の世界のノイズのようにくぐもって聞こえた。
如月がどこにいるのか、確証はなかった。ただ、彼女ならこんなうるさい場所にはいないだろうという直感だけがあった。
三階の突き当たり。かつて視聴覚室として使われていた部屋の前に来た時、微かな音が漏れ聞こえてきた。
――歌声だ。
僕は息を殺し、少しだけ開いていたドアの隙間から中を覗き込んだ。
埃を被ったパイプ椅子が積まれた部屋の片隅。窓から差し込む六月の白い光を背にして、如月詩が座っていた。
いつも首にかけているヘッドホンを耳に当て、膝の上に広げたノートパソコンの画面を睨みつけながら、マイクに向かって歌っている。
それは、体育館で誰かが歌っているような、どこにでもあるありきたりなラブソングなんかじゃなかった。
メロディは不規則で、ざらついていて、腹の底から絞り出すような怒りと、どうしようもない悲しみが混ざり合っていた。ちゃんとしているのに、どこかおかしい。不協和音スレスレの危ういバランスの上で、彼女の澄んだ、けれどひどく刺々しい声が響いていた。
僕はドアノブから手を離し、その場に縫い付けられたように立ち尽くした。
背筋にゾクゾクとするような電流が走る。彼女の内側で渦巻く、圧倒的な熱量。それは決して綺麗なものではない。ドロドロとした、社会や「普通」に対する苛立ち、吐き出せない感情の塊――言うなれば、地獄の底で無限に再生を繰り返すような、すさまじい負のエネルギーだった。
けれど、そのエネルギーが、どうしようもなく僕の胸を打ち鳴らした。
「……誰」
不意に歌声が途切れ、鋭い声が飛んできた。
しまった、気づかれた。僕は観念して、ゆっくりとドアを開けた。
「ごめん。覗くつもりはなかったんだけど……声が聞こえて」
如月は僕の顔を見ると、警戒するようにパソコンの画面をパタンと閉じた。
「高坂。……あんた、サボり?」
「如月こそ。シフト入ってたろ」
「あんなうるさい空間にいたら、頭がおかしくなる」
彼女はそっぽを向き、マイクのコードを無造作に巻き始めた。
「……すごい、歌だった」
僕が言うと、如月の手がピタリと止まった。彼女は振り返り、訝しげに僕を睨む。
「馬鹿にしてる?」
「してない。本気で言ってる。なんていうか……心臓を直接掴まれたみたいだった」
如月は小さく鼻で笑い、窓際のサッシに寄りかかった。
「高坂って、本当に変なやつ。あんなの、誰もまともに聴かないよ。ネットの海に放り込んでも、ノイズ扱いされて終わり」
彼女は自嘲するように目を伏せた。
「顔出しなんてしないで、適当に可愛く加工したアバターでも被って、どこにでもあるような歌声で、ありきたりな流行りの曲をカバーしてれば、きっと『大丈夫』なんだよね。みんなそういうのを求めてる。馬鹿みたいに同じフレーズが回ってるだけの動画なら、すぐに一億再生とかいく世界だし」
彼女の言葉には、深い諦念が混ざっていた。
「でも、あたしにはできない。そんな風に自分を切り売りして、誰かに消費されるくらいなら、一人でこの地獄みたいなエネルギーを燃やし続けてる方がマシ」
普通があるから、苦痛で。
彼女は、誰かの中に手を突っ込んで、嘘偽りのない感情を引きずり出そうと足掻いている。だからこそ、いつも周囲と摩擦を起こし、傷だらけになっているのだ。
僕は、窓辺に立つ彼女の細いシルエットを見つめた。
彼女が抱えるその鬱屈とした負のエネルギーが、僕にはたまらなく愛おしく思えた。誰も理解しなくてもいい。僕だけが、彼女のこの痛々しいほどの純粋さを知っていればいい。そんな、傲慢で独占欲に似た感情が胸の奥で膨らんでいく。
「一億再生なんて、いらないよ」
僕はゆっくりと、彼女の方へ一歩近づいた。
「俺は、今の如月の歌の方が、ずっといいと思う。……誰かがなんて言おうと、俺は好きだ」
如月はハッとして顔を上げた。その黒い瞳が、少しだけ揺れている。
彼女は何も言わず、しばらく僕を見つめ返していたが、やがてぷいっと顔を背けた。
「……意味わかんない」
照れ隠しのように乱暴に呟くその横顔は、少しだけ赤らんでいるように見えた。
「教室、戻らないの?」
「戻らない。ここにいる」
「じゃあ、俺もここにいる。サボり仲間ってことで」
「……勝手にすれば」
遠くで文化祭の喧騒が響く中、薄暗い視聴覚室には、僕と彼女の二人きりだった。
この先に何があっても、彼女がその棘だらけの心で世界を拒絶し続けるのなら、せめて僕だけは、彼女の隣で笑っていたい。彼女の不器用な戦いを、ずっと近くで見ていたい。
明確な言葉にはならないけれど、「守ってあげたい」という静かな決意のようなものが、僕の心の中に確かに根を下ろした瞬間だった。




