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第2話:普通があるから苦痛で

五月。東京の空はどんよりとした薄雲に覆われ、初夏特有の湿気を帯びた風が教室のカーテンを気怠げに揺らしていた。

 ゴールデンウィークが明けると、校内は一ヶ月後に控えた文化祭の準備で一気に浮き足立つ。僕たち二年三組の出し物は、多数決の結果「SNS映えするレトロポップなカフェ」という、どこにでもありそうな、無難極まりないものに決まった。

「じゃあ、看板のデザインは如月さんに任せていいかな? いつも絵、描いてるみたいだし」

 ホームルームの終わりに、クラス委員長の女子が明るい声で言い放った。それは提案という名の決定事項だった。誰もやりたがらない面倒な作業を、クラスで浮いている人間に押し付ける。いかにも健全な顔をした、ありきたりな同調圧力だ。

 如月詩は、いつものように首にヘッドホンをかけたまま、ノートから顔を上げることもなく「別にいい」とだけ呟いた。

「よかったー! じゃあ、いい感じに『映える』やつ、よろしくね!」

 委員長は満足げに笑い、周りの生徒たちも安堵の息を漏らす。誰も彼女の本当の返事など気にしていない。ただ、自分たちの手が汚れないことで頭がいっぱいなのだ。

 放課後。

 喧騒が引いた教室には、斜めに差し込む西日と、大きなベニヤ板に向かって黙々と筆を動かす如月の姿だけがあった。僕は帰るふりをして鞄を持ち、わざとゆっくりと靴紐を結び直しながら、彼女の後ろ姿をぼんやりと見ていた。

 帰ればいいのに、帰れなかった。

 あの時、誰もやりたがらない仕事を押し付けられた彼女を見て、胸の奥がチクチクと痛んだ。それが同情なのか、それともあの日の彼女の言葉がずっと頭にこびりついているせいなのか、自分でもよくわからない。

「……何」

 不意に、如月が振り返った。

 絵筆を持ったまま、彼女の黒く透き通った瞳が僕を射抜く。

「あ、いや……」

 僕は慌てて立ち上がり、頭を掻いた。

「一人じゃ大変かなって思って。看板。……手伝おうか」

 如月は僕の顔をじっと見つめ、それから手元のパレットに視線を落とした。

「高坂、だっけ」

「うん。高坂悠人」

「手伝いたいなら、好きにすれば。別に頼んでないけど」

 相変わらず愛想のない声だ。でも、拒絶はされなかった。

 僕は少しホッとして、彼女の隣に歩み寄った。そして、立てかけられたベニヤ板を見て、息を呑んだ。

 そこに描かれていたのは、クラスの連中が期待しているような「レトロポップで可愛い」カフェの看板ではなかった。

 黒と深い紫を基調にした背景に、ひび割れたティーカップ。そこから溢れ出すのは、毒々しいまでに鮮やかな極彩色の花々だった。花びらは一枚一枚が異常なほど緻密に描き込まれており、まるで生き物のように蠢いて見える。

 美しいけれど、どこか不気味で、目を逸らせなくなるような圧倒的な引力があった。

「これ……」

「変、でしょ」

 如月が自嘲気味に鼻で笑う。

「クラスのやつらが求めてる『ありきたりな普通』じゃないのはわかってる。でも、あたしにはこういうのしか描けない。ちゃんとしてるつもりなのに、いつもどこかおかしくなる」

 彼女の横顔には、諦めのような色が滲んでいた。

「『普通』があるから、苦痛なんだよね。それに合わせようとすればするほど、自分の中の何かが死んでいくみたいで」

 普通があるから、苦痛。

 その言葉は、僕の胸の奥に重く響いた。僕はずっと「普通」の側にいて、それに同化することで身を守ってきた。でも、本当は息苦しかった。誰かの正解に合わせて馬鹿みたいに笑っている自分が、ひどく空っぽに思えていた。

「……変じゃないよ」

 気づけば、僕は口を開いていた。

「誰かが言う『変』なんて、せいぜい自分たちの理解が及ばないものを排除するための口実だろ。たかが普通の『変』だよ。如月の絵は……なんか、すごい」

 ボキャブラリーの貧困さに自分でも呆れたが、如月は驚いたように目を丸くして僕を見た。

「すごいって。これ、どう見ても呪われてるカフェの看板だけど」

「いいじゃん、呪われてても。むしろ、この絵が飾ってあるカフェなら、俺は入ってみたい」

 僕はベニヤ板の隅を指差した。

「この花、めっちゃ細かく描いてある。ちゃんとしてるじゃん。ただ、エネルギーが強すぎるだけだ。地獄の底から這い上がってきたみたいな、負のエネルギーかもしれないけど……俺は、嫌いじゃない」

 如月はしばらく僕を見つめていた。その瞳の奥で、何かが小さく揺れたような気がした。

 彼女はふいっと視線を逸らし、再び筆をキャンバスに走らせる。

「……高坂って、案外おかしなやつなんだね」

「普通だよ、俺は」

「普通のやつは、あたしの絵を見てそんなこと言わない」

 少しだけ、彼女の声のトーンが柔らかくなったように聞こえた。

 静かな教室に、筆が板を擦る音だけが響く。彼女から発せられるその「負のエネルギー」とも呼べる熱量は、不思議と僕を安心させた。

 まるで、誰かの中に無理やり手を突っ込んで、覆い隠していた本当の感情を引きずり出してくれるような、そんな強さ。

「ここ、赤色もっと足した方がいいかな」

「あー、こっちの紫とグラデーションにしたら? 俺、色塗るのだけは手伝うよ」

「じゃあ、そこの筆洗ってきて」

 あごで使われながらも、僕は水道に向かう足取りが軽いことに気づいていた。

 僕にとって如月詩は、もうただ遠くから眺めているだけの「普通じゃない女の子」ではなくなっていた。

 もっと知りたい。彼女がヘッドホンの奥でどんな世界を聴き、どんな感性でこの窮屈な世界を切り取っているのか。

 夕日に染まる教室で、僕は筆を洗いながら、彼女の背中をもう一度見つめた。

 僕の中で、何かが確実に変わり始めていた。

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