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最終話:誰かの中にこの手を突っ込んで

十二月二十四日。東京の街は、一年で最も「いかにも健全で、ありきたりな幸せ」に満ち溢れていた。

 どこを見渡しても、赤と緑のイルミネーションが暴力的なまでに街を照らし出し、スピーカーからは誰もが知っている定番のクリスマスソングが絶え間なく流れている。すれ違う人々は皆、お揃いのマフラーを巻いたり、綺麗な箱に入ったケーキを下げたりして、社会が定めた「正解」の形をなぞるように笑い合っていた。

 かつての僕なら、その風景に紛れ込み、なんとなく息を潜めてやり過ごしていただろう。波風を立てないモブとして、どこにでもある幸せのフリをして。

 でも、今の僕の隣には、大きなヘッドホンで街のノイズを完全に遮断し、不機嫌そうにポケットに手を突っ込んで歩く、如月詩きさらぎ・うたがいた。

「……息が詰まる」

 人混みを抜け、国道沿いの歩道橋へと続く階段を上りながら、如月がぽつりと呟いた。

「みんな、同じ顔して、同じ歌聴いて、同じように幸せだと思い込んでる。ちゃんとしてるつもりで、思考停止してるだけなのに。……こういうのが『普通』なら、あたしは一生、普通になんてなれなくていい」

 歩道橋の上に出ると、冷たい冬の夜風が容赦なく吹き付けてきた。

 眼下には、見渡す限りの車のテールランプが、まるで都市の血液のように赤く連なって流れている。如月はその光の帯を、冷やめた瞳で見下ろしていた。

「……あたしの曲、今日だけでまた何十万回も再生されてるみたい」

 彼女は手すりに寄りかかり、自嘲するように笑った。

「クリスマスイブに病んでる自分、みたいなのに酔ってる奴らが、馬鹿みたいに動画を回してるの。あたしが血を流す思いで削り出した音は、奴らにとってはただの『ちょっと変わったBGM』にすぎない。……本当に、笑えるよね。誰かの中に手を突っ込んで、本当の感情を引きずり出したかったのに、結局、あたしは安全な場所から指を差されて消費されてるだけなんだ」

 彼女の声は、冬の風に掻き消されそうなほど細く、震えていた。

 強がって、世界中を敵に回してでも自分の音を鳴らそうとしていた彼女の、ヒリヒリとするような絶望。ちゃんとしているつもりなのに、いつも世界とズレて、おかしくなってしまう。普通があるから、彼女はずっと苦痛の中で足掻いているのだ。

 僕は、彼女の横顔をじっと見つめた。

 痛々しくて、不器用で、誰よりも純粋で、たまらなく愛おしい女の子。

 彼女が抱える地獄みたいな負のエネルギーは、僕の空っぽだった心を叩き割り、僕を「僕自身」にしてくれた。一億回の再生数なんてどうでもいい。ネットの向こうの無責任な大衆がどう解釈しようと関係ない。

 僕だけは、彼女の本当の痛みを、一番近くで受け止めたい。

「……如月」

 僕は、彼女のすぐ隣に立ち、その華奢な肩に向かって真っ直ぐに声をかけた。

 如月がヘッドホンをずらし、少しだけ驚いたように僕を見上げる。

 街の喧騒は遠のき、世界には僕たち二人しかいないような錯覚に陥った。冷たい風の音と、自分の心臓の音だけが、やけに大きく鼓膜を打っている。

「高坂、どうし……」

「お前は、自分が普通じゃないって、いつも怒ってるけどさ」

 僕は彼女の言葉を遮り、一歩だけ、彼女のパーソナルスペースへと踏み込んだ。

「俺から見れば、お前が世界に違和感を持ってるのも、自分の感情を無理やり音楽にして吐き出してるのも……全部、当たり前のことだよ。誰かが言う『変』なんて、せいぜいたかが普通の『変』だ。お前は、お前のままで、痛いくらいにちゃんとしてる」

 如月は息を呑み、手すりを掴む手にギュッと力を込めた。

「でも……俺も、おかしくなっちまったみたいだ」

 僕は、自分の胸の奥、ずっと燻っていた感情の塊に、無理やり手を突っ込んだ。

 波風を立てず、傷つかないように生きてきた「いかにも健全な高校生」の皮を引っぺがし、ドロドロとした本当の感情を引きずり出す。それは、彼女が音楽を作る時に味わっていた痛みに、少しだけ似ている気がした。

「一億人がお前の音楽を消費して終わっていく世界で、俺だけが、お前のすべてを独占したいって思ってる。お前が怒ってても、泣いてても、世界中から指を差されて笑われても……この先に何があっても、俺がお前を全部から守ってやりたいって、本気で思ってる」

 如月の黒い瞳が、大きく見開かれた。

 その瞳の奥で、眼下の赤いテールランプの光が揺れている。彼女の唇が微かに震え、何かを言おうとして、声にならずに閉じた。

「ムカつくくらい不器用で、ちゃんとしてるつもりでいつもどこかズレてるお前のことが、俺は……どうしようもなく、たまらなく愛おしいんだ」

 風が止んだ。

 僕は、冷たくなった彼女の右手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。

 彼女の体温が、僕の手のひらを通じて、心臓のど真ん中へと流れ込んでくる。もう、モブとしての安全な日常になんて戻れない。戻りたくもない。

「俺のそばで、笑っててほしい。……俺と、付き合ってくれ」

 東京の冷たい夜空の下。

 僕が引きずり出した、たかが普通の、けれど僕にとってはすべてを懸けたその言葉は、白い息となって彼女の目の前へと溶けていった。

 如月は、繋がれた手を見つめたまま、ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げる。

 その黒く透き通った瞳が、真っ直ぐに僕を射抜いた――。

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