第1話:たかが普通の変
「普通」であることは、正しい。
波風を立てず、目立たず、誰の記憶にも強烈には残らない代わりに、誰からも攻撃されない。2025年、春。高層ビル群が空を切り取る東京というこの街で、無数の「普通」に埋もれながら、高校二年生になった僕、高坂悠人は、今日も完璧な背景として息を潜めていた。
昼休みの教室は、いつだって「いかにも健全で、ありきたりな感性」に満ちている。
「ねえ、今の流行りのステップ、もう一回撮ろうよ!」
「顔出ししなくても、これならバズるっしょ!」
教室の前方では、クラスの中心にいる男女のグループがスマートフォンのカメラに向かって、馬鹿みたいに同じようなダンスを繰り返している。SNSを開けばどこにでもあるような歌声に、どこにでもあるようなリズム。それを「個性」だの「自己表現」だのと持て囃し、一億再生を突破した動画の真似事をして消費していく。
みんな楽しそうだ。僕も誘われれば愛想笑いを浮かべて後ろで手を叩くし、それが「普通」の高校生活というものだと思っている。
でも、時々息が詰まる。この、漂白されたような健全さが、酷く窮屈に感じることがある。
そんな時、僕の視線は決まって窓際の最後列――如月詩の席へと向かっていた。
如月は、クラスの中で完全に浮いている存在だった。
艶のない黒髪を無造作に伸ばし、制服の着こなしもどこかアンバランス。彼女は今も、周囲の喧騒など一切耳に入っていないかのように、大きなヘッドホンを首にかけ、ノートの切れ端にひたすら何かを書き殴っていた。文字なのか、絵なのか、遠くからではよくわからない。時折、眉間に皺を寄せたり、何かに納得したように小さく頷いたりしている。
彼女には友達がいない。いつも一人だ。
体育の授業でペアを作る時も最後まで余るし、移動教室も一人で歩く。けれど、彼女の背中からは「一人ぼっちで可哀想」という悲壮感は一切感じられなかった。むしろ、周囲に透明な壁を張り巡らせて、「私の世界に入ってくるな」と全身で拒絶しているように見えた。
「うわ、また如月さん、なんかブツブツ言ってるよ」
「マジで普通じゃないよね、あの人。なんかズレてるっていうか」
ダンス動画の撮影に飽きたグループの一人が、如月を見てクスクスと笑う。
「ほら、最近よく言うじゃん。『人と違うのが普通で、ズレてるからこそ光る個性を大事にしよう』とか。あの子、それ真に受けて拗らせちゃった系?」
「あー、わかる! 個性とか言っとけば何でも許されると思ってる痛いヤツね」
指を差し、嘲笑する声。それは確実に如月の耳にも届く距離だった。
僕は思わず目を伏せた。関わりたくなかった。誰かを「変だ」と笑うことで自分たちの「普通」を確認し安心する。そんな残酷な儀式に加担するのも嫌だったし、かといって如月を庇って自分が標的になる勇気もなかったからだ。
――やめとけよ。
心の中で小さく呟いた、その時だった。
「……それで?」
静かだけれど、教室の喧騒を切り裂くような冷たい声が響いた。
声の主は、如月だった。彼女は手元のペンを置き、ゆっくりと顔を上げて、自分を笑っていたグループを真っ直ぐに見据えていた。
「え?」
不意を突かれたリーダー格の女子が、間抜けな声を漏らす。
「あたしは普通じゃないからとか、そういうの、もう聞き飽きた。自分たちで考えたわけでもない、どこにでもあるような量産型の感性で寄り集まって、こんなのは普通じゃないって指差して笑ってるだけ」
如月の声は震えていなかった。怒りというより、底なしの呆れを含んだ、酷く平坦な声だった。
「それで終わってく人生で、あんたたちは本当に大丈夫なの? 笑える。神様にでもなったつもり?」
教室が、シンと静まり返った。
誰も何も言い返せなかった。如月の放った言葉は、あまりにも身も蓋もなく、彼らの痛いところを正確に突いていたからだ。
「……な、なんだよあいつ、マジでムカつく」
「意味わかんない。関わらんとこ」
気まずくなったグループは、捨て台詞を吐いて足早に教室を出て行った。残された生徒たちも、腫れ物に触るかのように如月から視線を逸らし、ヒソヒソと話し始める。
如月は、ふうと短く息を吐くと、再び首にかけていたヘッドホンを耳に当て、ノートに向かって何かを書き始めた。何事もなかったかのように。
僕は、自分の席から動けないでいた。
心臓が、妙にうるさく鳴っていた。
彼女は、ちゃんとしているのに、どこかおかしい。
でも、彼女のその「おかしさ」は、他人が言うような「変」とは少し違う気がした。誰かが言う「変」なんて、所詮は型にはまった「普通の変」にすぎない。
彼女はただ、誰よりも純粋に、自分の内側にある得体の知れないエネルギーを持て余しているだけなのだ。周りがどれだけ彼女を異端扱いしても、彼女には「これしか方法がなかった」のだろう。
不器用で、棘だらけで、触れれば血が滲みそうなほど鋭利な女の子。
一般的な高校生である僕から見れば、彼女は間違いなく「普通じゃない」存在だった。近づけば、僕の平和な日常にまで負のエネルギーが伝染してきそうだ。
それなのに。
窓から差し込む春の光の中で、ひとりヘッドホンを揺らしながらペンを走らせる如月の横顔が――どうしようもなく、たまらなく愛おしいもののように見えた。
普通って、なんだろう。
僕は、自分の胸の奥で、今まで感じたことのない小さな火種がチリチリと音を立てて燃え始めるのを感じていた。
あんな風に、誰かの中に手を突っ込んで、無理やり感情を引きずり出すような強さが、僕にもあったなら。
もしも、あいつの隣で笑うことができたなら。
キーンコーンカーンコーン。
午後の授業の始まりを告げるチャイムが、東京の乾いた空気に溶けていく。
僕は、ノートの端に『如月 詩』と無意識に書き込んでいた自分のペン先を見つめ、慌ててそれを黒く塗りつぶした。
まだ、ただ遠くから見つめているだけ。
これが、僕と「普通じゃない」彼女との、静かで、決定的な始まりだった。




