第9話「聖都の門」
聖都の門は、朝日を受けて白く輝いていた。
石造りのアーチ。高さは五階建てのビルくらいある。門柱に彫られた聖典の文字が、朝の光を受けて金色に浮かび上がっている。こんな大きな門を、毎日開け閉めしてるんだ。すごいな。誰が動かすんだろ。滑車? 歯車? ちょっと見たい。
……いや、今はそういうことを考えてる場合じゃない。
バックパックを背負い直す。旅装束。革の水筒。干し肉と保存パンの包み。イレーネが昨日用意してくれたもの一式。ポケットにスマホ。78%。
門の前に、レオンがいた。馬を二頭引いている。荷を積んだ馬と、乗り手のいない馬。
「乗れるか」
「……乗ったことないです」
レオンは一瞬だけ目を閉じた。たぶん「こいつマジか」と思ってる。
「イレーネと二人乗りにしろ」
イレーネが微笑みながらひらりと馬に跨がった。修道服のまま。この人なんでもできるな。手を差し伸べてくれる。その手を掴んで、なんとか馬の背に這い上がった。高い。めちゃくちゃ高い。地面が遠い。落ちたら死ぬんじゃないかこれ。
「しっかりおつかまりくださいませ、聖女様」
イレーネの腰にしがみつく。修道服の布地が頬に当たる。石鹸の匂いがする。馬が一歩動くたびに、お尻の下で筋肉が波打つ。自転車とは全然違う。生き物の上に乗ってるんだ、これ。
「聖女様ーーーっ!」
背後から声が飛んできた。
振り返る。門の内側を、誰かが全力で走ってくる。見習い騎士の制服。短い金髪。お披露目のとき最前列にいた、あの少年。
息を切らして門の前に滑り込んだ。膝に手をつく。肩で呼吸している。顔を上げた。目がきらきらしている。
「お、お気をつけてっ! 聖女様!」
声が裏返っている。お披露目のときと同じだ。大聖堂の最前列で叫んでいた、あの子。
「ろーどあうと!」
右手を突き上げた。拳を握って。全身全霊の「ろーどあうと」。意味はたぶんわかってない。でもあの日、大聖堂で聞いた言葉を、この子はずっと覚えていたんだ。
……なんだろ。胸の奥が、きゅっとなった。
笑顔を作る。ちゃんとした笑顔。聖女としてじゃなくて、この子に応えたいから作る笑顔。
手を振った。
「ありがとう! 行ってきます!」
少年の顔がぱっと明るくなった。太陽みたいに。この笑顔のためだけに聖女をやってもいいかもしれない、と一瞬だけ思った。一瞬だけ。
レオンが馬を進めた。門をくぐる。
門のアーチの下を通るとき、影が落ちた。一瞬だけ、冷たい影。見上げると、石のアーチの裏側に聖典の文字が刻まれていた。守護の祈り、みたいなものなんだろうか。その文字の下をくぐって、外に出る。
朝日が正面から射し込んで、目を細める。
聖都の石畳が、土の街道に変わった。馬の蹄の音が、硬い音から柔らかい音に変わる。空が広くなる。建物がなくなって、草原が広がっている。風が違う。石壁に閉じ込められた風じゃなくて、どこまでも抜けていく風。草の匂い。土の匂い。知らない花の匂いが混ざっている。
この数日間、あの石壁の中にいた。迷子になったり、料理を失敗したり、匙の合金を分析したり。大変だったけど、壁があった。天井があった。閉じた場所には閉じた場所の安心がある。
今、その壁がない。前にも後ろにも左右にも、どこまでも空が続いている。
振り返ると、聖都の門がもう小さくなっていた。あの中に、あの少年がまだ立っているのかもしれない。手を振っているのかもしれない。見えないけど。ここからはもう、見えないけど。
ティックが先に飛んでいく。「おそといいねー! 広いねー!」
うん、広い。広すぎて、ちょっと怖い。
ポケットからスマホを出した。癖で。マップアプリを開く。
圏外。
……あ、そっか。
画面を消した。イレーネの背中越しに、その動作が見えたはず。また何か書かれるんだろうな。「聖女は光る板を頻繁に確認する」とか。
レオンは前を向いたまま、一度も振り返らない。イレーネの背中は真っすぐで、馬の揺れにもぶれない。ティックは光る虫を見つけて追いかけ始めた。
この三人と——いや、二人と一匹と、これから魔王城まで旅をする。
封印の儀式。誰も教えてくれない中身。78%のスマホ。レプリカのステッキ。アジシオ。
背中に視線を感じた。振り返りたい。振り返らない。イレーネの目がそこにあるのは、わかっている。
旅が、始まった。




