第88話「ロードアウト、アイアン・ブート!」
日曜日の夜。
自分の部屋。ベッドの上。スマホを充電器に繋いだまま。バッテリー100%。満充電。
アカリはスマホで——アイアン・ベルを観ていた。
配信サービス。第1話。再生ボタンを押した。
何度も観たアニメだった。台詞を全部暗記しているアニメだった。変身バンクの作画を一コマずつスクショしたアニメだった。推しのアニメ。
しかし——見え方が変わっていた。
第1話。ベルが初めて変身する回。光に包まれて、メガネを外して、髪が靡いて、装甲が装着されて。完璧な変身シーケンス。テーマソングが流れて。
前は——かっこいい、としか思わなかった。変身バンクの作画がやばい。推せる。尊い。無理。しんどい。
今は——違うものが見えた。
変身する直前のベルの目。メガネをかけた変身前のベルの目。不安そうな目。ちょっと怖がっている目。手が震えている。足が竦んでいる。それでも——一歩踏み出す。
前は変身後のベルだけを見ていた。光に包まれた、完璧な、強い、美しいベル。
今は変身前のベルが見えた。メガネをかけた、不安な、震えている、それでも踏み出すベル。
自分と同じだった。
第7話。ベルが初めて負ける回。武器が壊れる。変身が解ける。雨の中で膝をつく。メガネが割れる。泥だらけになる。
前は——ベルが可哀想、早く立ち上がって、と思った。
今は——泥だらけのベルの手を見ていた。武器を握ろうとして握れない手。壊れた装甲の破片で切れた手。雨と泥で汚れた手。
あの手。自分の手と同じだった。歯車プローブを握り続けて擦り切れた手。ニッパーで切った手。銅線で引っ掻いた手。
ベルも——泥だらけだった。
第19話。ベルが仲間を失いかける回。「信じて。私を信じて。まだ——」。前は台詞だけを覚えた。かっこいい台詞。推しの名言。
今は——ベルの声の震えが聞こえた。「信じて」と言いながら、自分が一番信じられていない声。それでも言う。声が震えていても言う。借り物ではなく、自分の中から絞り出した言葉を。
第32話。ベルの武器が二度目に壊れる回。しかし今度は壊れた武器を——直す。仲間が部品を集めて、ベルが組み立てて。不完全な修理。元通りにはならない。しかし使える。戦える。
前は気にも留めなかったシーンだった。武器が直ってよかった、次の戦闘が楽しみ、程度だった。
今は——このシーンで泣いた。
ベルが仲間の集めた部品で武器を組み立てている手元のアップ。作画が丁寧だった。指先の動き。接合部の形。不完全だけど正しい形。
泥だらけの方が美しい。
ベルもそうだったのだ。完璧な変身シーケンスのベルではなく。武器が壊れて、仲間に助けられて、泥だらけになって、不完全な修理で戦い続けたベル。最終話で「リストア・コンプリート」と叫んだベルは——そこに辿り着いたベルだった。
アカリは最終話まで全部観た。六時間かかった。日曜日の夜が明けようとしていた。
スマホの画面にエンドロールが流れている。スタッフクレジット。声優の名前。作画監督の名前。脚本家の名前。
脚本家が書いた台詞。しかしベルが自分の物語の中で辿り着いた台詞。
推しの言葉は——借り物じゃなかった。
先に辿り着いた人の言葉だった。
画面が暗くなった。配信終了。
アカリはスマホを置いた。
部屋の隅を見た。
ハンガーラックにかかっている衣装。ボロボロのコスプレ衣装。異世界から持ち帰った衣装。泥だらけの。血の跡がある。装甲パーツが外れている。マントが破れている。歯車のエンブレムがない——プローブにしたから。
その隣に——新しい布地が置いてある。先週、手芸店で買った。白い布。銀色の布。新しい衣装を作るための材料。
作り直す。
異世界で壊した衣装を。いや——異世界で「使い切った」衣装を。新しく。
しかし前と同じには作らない。
机の上のノートを開いた。新しい衣装のデザイン画。先週から描いている。ベルの衣装を忠実に再現するのではなく——アカリの衣装として。
歯車のエンブレムは残す。しかし位置を変える。胸ではなく、左手の甲。プローブとして使ったときの記憶を残すために。
翼のパーツは作り直す。しかし素材をアルミシートに変える。布と光ファイバーの翼ではなく、銀色のアルミの翼。飛ぶためではなく、繋ぐための翼。
メガネは——外さない。
ベルは変身するときメガネを外す。コスプレでもずっとそうしてきた。メガネを外すのが変身の第一歩。
もう外さない。
メガネをかけたまま。155センチのまま。素のアカリのまま。ベルの衣装を着て。
ベルのコスプレではない。ベルへの敬意を纏った、アカリの衣装。
◇
月曜日の朝。
学校に行く前。
机の上を片付けていた。ノート。教科書。シャーペン。消しゴム。定規。
シャーペンを——手に取った。
0.5mm。いつも使っているシャーペン。銀色の軸。クリップのところに小さな傷がある。
しかし——違和感があった。
このシャーペン。いつからあったっけ。
異世界に行く前から持っていた——はずだ。筆箱に入っていた。学校で使っていた。しかし——このシャーペンの「購入した記憶」がない。文房具屋で買った記憶がない。誰かにもらった記憶もない。いつの間にか筆箱の中にあった。
軸を見た。銀色。メーカーのロゴ。日本のメーカー。普通のシャーペン。
しかしグリップ部分に——小さな傷があった。爪で引っ掻いたような細い傷。使い込んだ跡ではない。新品に近い外見に、その傷だけが不自然に刻まれている。
癖のような傷。数式を考えるときに、無意識にカリカリと引っ掻いた痕。
——マナ。
アカリの手が止まった。
マナの遺品。0.5mmのシャーペン。三十年前の少女が地下室で数式を書くために使ったシャーペン。グリップ部分に爪で刻んだような細い傷があった。
同じ傷。
このシャーペンは——マナのシャーペンなのか。異世界で見たマナの遺品が——いつの間にか、アカリの筆箱に紛れ込んでいるのか。
わからない。
証明する方法はない。シャーペンは普通のシャーペンだ。日本のメーカーの、0.5mm。文房具屋で買えるもの。マナが召喚される前に——1996年に、日本の文房具屋で買ったものと、同じメーカー。同じ型番。
偶然かもしれない。
しかしアカリは——そのシャーペンを握った。
0.5mmの芯先がノートの紙に触れた。
回路図を描いた。昨日田中と話した排熱処理の設計。四十五度の合流角度。ダンパーの配置。接地点の位置。
マナが三十年前に描いた回路図と同じペンの太さで——アカリが新しい回路図を描いている。
マナの回路図は七十度だった。アカリの回路図は四十五度。理論は受け継いで、実装で更新した。0.5mmの線が——三十年の時間を越えて繋がっている。
「……マナ」
呟いた。
「あなたのペン、借りるね。借りるけど——」
シャーペンを握り直した。
「借り物のまま終わらせないから」
◇
窓の外。
朝の街。電車が走っている。車が走っている。信号が点滅している。コンビニの看板が光っている。
魔法なんてない街。
しかし——動いている。電気で。回路で。人間の知恵で。千年の魔力回路なんてなくても、配電盤とブレーカーと接地線で、巨大な街が動いている。お父さんが直している配電盤が、この街を動かしている。
机の隅にアイアン・ベルのフィギュア。十五センチのスケールフィギュア。変身後のベル。光の翼を広げた、完璧な姿。
アカリはフィギュアを見た。
「ベル」
呟いた。
「あんたのこと、前より好きだよ」
前より好き。前は——完璧な変身シーケンスが好きだった。光に包まれた強い姿が好きだった。
今は——全部が好き。変身前のメガネ姿も。武器が壊れて泣いた顔も。仲間に支えられた手も。泥だらけで立ち上がった膝も。不完全な修理で戦い続けた背中も。
全部。
前より——ずっと好き。
解像度が上がった。推しの解像度が。光っている部分だけじゃなく、影も、泥も、傷も、全部が見えるようになった。全部が見えた上で——好きだと思える。
それが——推しの尊さだった。
アカリは立ち上がった。
部屋の真ん中に立った。
メガネをかけている。制服を着ている。工業高校のブレザー。155センチ。
コスプレ衣装は着ていない。ステッキも持っていない。LEDもない。光の粉もない。テーマソングも流れない。
何もない。
素の自分だけ。
右手を前に伸ばした。
何も握っていない。しかし——指が覚えている。ステッキを握った感触。歯車プローブを握った感触。ニッパーを握った感触。全部、この右手が覚えている。
深呼吸した。
メガネが朝日を反射した。レンズの中に、窓の外の街が映っている。魔法のない街。回路で動く街。
口を開けた。
「ロードアウト——」
声が出た。
震えていなかった。借り物の震えでも、ハッタリの強がりでもなかった。自分の声だった。
「——アイアン・ブート!」
部屋に響いた。
何も起きなかった。光に包まれなかった。変身しなかった。髪は靡かなかった。装甲は装着されなかった。テーマソングは流れなかった。
何も起きなかった。
しかしアカリは——笑っていた。
泣いていた。
笑いながら泣いていた。嬉しくて。推しが好きで。推しと同じ場所に立てたことが嬉しくて。借り物じゃなかったことが嬉しくて。ベルと同じ道を——別の道を通って——歩けたことが嬉しくて。
メガネが涙で曇った。
拭いた。制服の袖で。イレーネみたいに丁寧にじゃなく、雑に。
レンズが透明になった。
朝日が差し込んでいる。部屋の窓から。カーテンの隙間から。
机の上に0.5mmのシャーペンが一本。グリップに小さな傷。三十年の時間を越えて届いた、理論家のペン。
そのペンで描く新しい回路図は——誰も泣かなくていい世界へ、繋がっている。
アカリは鞄を取った。
「行ってきます」
玄関を出た。
朝の光の中に。
メガネをかけたまま。
0.5mmのシャーペンを、筆箱の中に入れて。
—— 完 ——




