第86話「RESTORE」
朝日が差し込んでいた。
螺旋通路の上方から。石の壁の隙間から。白い光ではない。橙色の光。夜明けの光。
暗闇の中にいた時間がわからなかった。五時間か。六時間か。十時間か。しかし夜が明けていた。外の世界では——朝が来ていた。
朝日が螺旋通路を降りてきて、円形の部屋の石の床を照らした。壁面のバイパス回路の白い光と、朝日の橙色の光が混じり合った。
暖かい。
朝日が暖かい。石の壁が冷たくて、空気が湿っていて、体が強張っていた。しかし朝日が——暖かかった。
アカリは螺旋通路を登り始めた。全員で。レオンが先頭。バルトロメイがエミルに肩を貸されている。ザインが壁に手を当てながら歩いている。イレーネが手帳を抱えている。ティックがアカリの肩の上にいる。
長い螺旋。登るのは降りるより辛い。脚が重い。何時間も立ちっぱなしだった脚。しかし——上に光が見えている。朝日の光。
螺旋通路の出口に辿り着いた。
光が溢れた。
朝日。
魔王城の最上部。崩れかけた石壁の隙間から、朝日が斜めに差し込んでいる。瘴気が——薄い。昨日までの重苦しい空気が、薄くなっている。バイパスが機能して、余剰エネルギーの排出が正常化して、瘴気の発生が止まりつつある。
空が見えた。
青い空。雲が橙色に染まっている。朝焼け。この世界の空。異世界の空。しかし朝焼けは——アカリの世界と同じ色だった。
アカリは崩れた石壁にもたれた。朝日を浴びた。
背中のアルミホイルが——朝日を反射した。銀色に光った。
翼が光っている。弁当を包んでいたアルミホイルの翼が。ベルの翼ではない。アカリの翼。接地のための翼が——朝日を浴びて、銀色に光っている。
◇
「動かないで」
イレーネの声が聞こえた。
アカリは石壁にもたれたまま、目を閉じかけていた。疲労で。朝日の暖かさで。
目を開けた。
イレーネが——目の前に立っていた。
手帳を持っていない。手帳は腰の布袋に仕舞われている。代わりに——両手が空いている。
イレーネの右手が、修道服のポケットに入った。何かを取り出した。小さな瓶。蓋のついた陶器の瓶。そしてもう一つ、小さな布。
「記録の一環です」
イレーネの声は平坦だった。いつもの報告書の声。
「聖女の帰還の記録に、この顔では報告書に書けません」
建前だった。アカリにはわかった。イレーネにもわかっていた。しかしイレーネは建前を捨てなかった。最後まで。
イレーネの指が小さな瓶の蓋を開けた。淡い色の粉末。鉱物を砕いたもの。この世界の化粧料。修道女が持っているはずのないもの。いつ、どこで手に入れたのか。
イレーネの指先が粉末に触れた。そして——アカリの頬に触れた。
冷たい指先だった。しかし——丁寧だった。メガネを拭いたときと同じ丁寧さ。髪を結んだときと同じ慎重さ。しかしもっと——近い。
粉末がアカリの頬に乗った。薄く。均一に。泥と涙の跡を覆うように。しかし完全には隠さなかった。泥の跡がうっすら透けている。イレーネは——厚く塗らなかった。素肌を消すのではなく、素肌の上にひと膜だけ、光を乗せた。
布で目の周りを拭った。涙の跡が消えた。腫れは消えないが、涙の塩の白い跡が消えた。
唇に——別の色を乗せた。瓶の底に沈んでいた赤い粉末。唇の輪郭に沿って。薄く。
作業は一分もかからなかった。
イレーネが手を引いた。
レオンが——振り向いた。
朝日の中で。アカリの顔を見た。
目が——止まった。
髪を結んだときに一瞬だけ目が止まった。しかし今は——一瞬ではなかった。灰色の目がアカリの顔に留まった。
アカリは——自分の顔がどうなっているか、見えない。鏡がない。しかしレオンの目が教えてくれた。レオンの灰色の目に映った自分の顔が——知らない顔だった。
化粧映えする顔。イレーネの手が引き出した顔。泥の跡が透ける薄化粧。腫れた目。擦り切れた指。しかしその上に——一枚だけ、光が乗っている。
エミルが口を開けていた。若い騎士たちが目を見張っていた。バルトロメイの目が——柔らかくなっていた。
ザインだけが視線を逸らしていた。理論家には関係のないことだ。
「……イレーネさん」
「何ですか」
「ありがとう」
「報告書のためです」
嘘だった。二人とも知っていた。しかしそれでよかった。
イレーネの唇が——ほんの一瞬、動いた。笑みではなかった。しかし石の表情でもなかった。手帳を腰の袋から取り出して、最後の一行を書き加えた。何を書いたのかは——アカリには見えなかった。
◇
帰る時が来た。
どうやって帰るのか、アカリにはわからなかった。来たときもわからなかった。コスプレイベントの会場で、気づいたらこの世界にいた。帰り方も——同じなのかもしれない。気づいたら帰っている。
ザインが言った。「封印回路が正常化すれば、召喚の逆行が起きる。聖女を呼ぶのと同じ力が、聖女を送り返す。マナの設計にそう書いてあった」
つまり——回路が直ったから、帰れる。
壊れた回路が聖女を呼んだ。直った回路が聖女を帰す。
アカリは全員の前に立った。
崩れた石壁の上。朝日の中。
何を言えばいいかわからなかった。別れの言葉。感謝の言葉。たくさん言いたいことがある。しかし——言葉が多すぎて、何も出てこない。
ティックが肩から飛び上がった。アカリの顔の前でホバリングした。
「またね」
ティックの声。語尾が伸びなかった。
「……またね、ティック」
「ティック、待ってるからね。ずっと。何百年でも。ティック、待つの得意だからね」
震えた声。しかし笑っていた。ティックの大きな目が笑っていた。
ティックがアカリの鼻先に額をつけた。小さな額。暖かい。燐光が微かに光った。
バルトロメイが頭を下げた。深く。鎧の傷だらけの体で。何も言わなかった。言葉は要らなかった。二十年分の贖罪が終わった男の、静かな礼。
ザインが腕を組んだまま目を逸らした。「……理論上、再召喚の可能性はゼロではない。しかし期待するな」。理論家の別れの言葉。
イレーネが手帳を胸に抱えた。「報告書は——提出しません」。それだけ言って、目を伏せた。
エミルが敬礼した。「聖女様——! お元気で——!」。涙声。十七歳の見習い騎士の、まっすぐな敬礼。
レオンが——最後に残った。
灰色の目。朝日に照らされた灰色の目。
「……また、な」
短かった。レオンらしかった。
アカリは笑った。泣きそうだった。しかし笑った。
「またね」
悲しい別れにしなかった。再会の保証はない。しかし絶望もない。笑って「またね」。それで——十分だった。
足元が——光り始めた。
白い光。しかし聖女の犠牲の光ではない。回路の送還機能。正常化した封印回路が、召喚の逆行を実行している。
光がアカリの体を包んだ。足元から。膝から。腰から。胸から。
今度は——痛くなかった。
暖かかった。朝日と同じ温度の、穏やかな光。
全員の顔が見えた。光の中から。ティック。バルトロメイ。ザイン。イレーネ。エミル。レオン。
光が——閉じた。
◇
天井。
白い天井。蛍光灯。消えている。朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。
自分の部屋だった。
ベッドの上。布団の中。パジャマ——ではない。コスプレ衣装。ボロボロの。泥だらけの。血が乾いた。しかし——着ている。異世界の衣装のまま、自分のベッドの上にいる。
夢ではなかった。
手を見た。右手。指の腹が擦り切れている。爪の間に緑青が残っている。血が乾いた跡がある。歯車プローブを握り続けた手。
左手。ニッパーの跡。銅線で切った傷。富士山の形を叩いた指。
夢ではなかった。
ベッドの横。充電台の上にスマホがあった。画面が真っ黒。バッテリー0%。
手を伸ばした。充電ケーブルを差し込んだ。
数秒。画面に充電マークが表示された。赤いバッテリーのアイコン。0%。充電中。
しばらく待った。1%。2%。3%。
起動した。
ロック画面。壁紙はアイアン・ベルのキービジュアル。変わっていない。日付——2026年。出発した日と同じ日付。時間が経っていない。
カメラロールを開いた。
写真が並んでいた。異世界で撮った写真。回路の写真。損傷箇所の写真。マナの数式の写真。ユウの一眼レフの写真。
最後の一枚。
見覚えがなかった。
焚き火の前。夜の暗闇。橙色の光に照らされた——後ろ姿。小さな背中。メガネのつる。髪が肩にかかっている。手元で何かを工作している。ニッパーと銅線。集中している横顔の輪郭が、焚き火の光で縁取られている。
撮影者は——アカリではない。
レオン。
いつ撮ったのか。アカリが工作に没頭しているとき。気づかないうちに。レオンがスマホのカメラを——操作方法がわからないはずのレオンが——シャッターを押した。
一枚だけ。
ピントが少しずれている。構図が傾いている。初めてカメラを使った人間の写真。しかし——アカリの後ろ姿が、そこにあった。
アカリはスマホを抱きしめた。
泣いた。
声を出して泣いた。ベッドの上で。ボロボロの衣装のまま。朝日が差し込む自分の部屋で。
しばらく泣いて——泣き止んだ。
スマホを開いた。カメラロール。レオンの写真。
SNSにはアップしなかった。
新しいフォルダを作った。
名前をつけた。
「RESTORE」。
一枚だけ、保存した。




