第85話「もう言い訳はできない」
螺旋通路から——もう一つの足音が降りてきた。
バルトロメイの足音ではない。鎧の音がしない。法衣の裾が石を擦る音。ゆっくりとした足音。重い。しかし鎧ではなく——年齢の重さ。
グレゴリウスが現れた。
白い法衣。金糸の肩章。しかし整った姿ではなかった。法衣の裾が汚れている。肩章が片方外れている。白い髪が乱れている。螺旋通路を急いで降りてきたのだろう。六十代半ばの体で。
大司教の顔が——石ではなかった。
大聖堂で見た「三十年分の石の顔」ではなかった。青い目が揺れていた。壁の前で泣いた夜と同じ目。三十七人の名前を読み上げた日と同じ目。
グレゴリウスの目が——壁面を見た。
白い光が脈打っている。穏やかに。安定して。50Hzの唸りが消えた壁面。バイパス回路が正常に動作している壁面。千年間鳴り続けていた異常が——消えた壁面。
グレゴリウスの足が——止まった。
壁面の前で。白い光に照らされて。
大司教の手が壁面に伸びた。導線に触れた。指先で。
震えていた。グレゴリウスの指先が。
「……静かだ」
声が掠れていた。
「唸りが——消えている」
グレゴリウスはこの音を知っていた。三十年前からずっと聞いていた。魔王城に入るたびに。封印の儀式のたびに。聖女を送り出すたびに。50Hzの唸りを聞いていた。意味は知らなかった。しかし音は知っていた。城全体が震える音。不吉な音。
その音が——消えている。
「できたのだ」
グレゴリウスの声が——割れた。石の顔が割れるように。
「犠牲なしで——できたのだ」
膝をついた。
白い法衣が石の床に広がった。金糸の肩章が外れて落ちた。六十代半ばの大司教が、石の床に膝をついた。
「つまり——」
声が震えていた。
「もっと早くに——」
もっと早くに。
もっと早くに修理していれば。もっと早くに理論家と実装者が揃っていれば。もっと早くにバイパスという発想があれば。もっと早くに——。
マナは死ななくてよかった。
サキは死ななくてよかった。
ユウは死ななくてよかった。
三十人以上の聖女が——死ななくてよかった。
千年分の犠牲が——必要なかった。
グレゴリウスの肩が震えていた。白い法衣の背中が震えていた。大聖堂で壁に向かって泣いたときと同じように。しかしあのときは夜だった。誰もいなかった。今は——全員が見ている。エミルが。バルトロメイが。レオンが。ザインが。イレーネが。
アカリが——グレゴリウスの前に立った。
155センチ。膝をついたグレゴリウスと同じくらいの目の高さ。
青い目と目が合った。
「大司教様」
アカリの声は——静かだった。
怒りはなかった。憎しみもなかった。大聖堂で対峙したときの緊張もなかった。
「あなたが殺したんじゃない」
グレゴリウスの目が——見開かれた。
「システムが壊れてたんです。千年前から。合流角度が七十度で、逆流が三十七パーセントで、接地不良で50Hzが鳴ってて。マナの設計には配線の知識が足りなくて。誰も直し方を知らなかった。あなたも——システムの中にいただけ」
グレゴリウスは答えなかった。膝をついたまま。青い目が濡れたまま。
「壊れたシステムの中で、あなたにできることは限られてた。聖女を送って、封印を維持して、城下町を守る。それしか方法がなかった。直す方法を誰も知らなかったから」
アカリの声が——少しだけ、硬くなった。
「でも」
「……」
「もう言い訳はできない」
グレゴリウスの肩が——止まった。震えが止まった。
「知ってしまったから。直せるって。犠牲なしで修理できるって。合流角度を四十五度にすれば逆流が止まるって。接地点を三センチ移せばリークが止まるって。全部——知ってしまった」
アカリの目が——真っ直ぐだった。
メガネの奥の目。泥だらけの顔。血が乾いた手。155センチ。十七歳。
「これからは——直す方を選んでください。もう二度と、聖女を燃やさないでください。回路の残りの一パーセントは、時間をかけて直せます。導線を交換して、接合部を修繕して。犠牲じゃなくて、修理で」
「……できるのか。犠牲なしで——維持できるのか」
「できます」
即答した。
しかしすぐに——首を傾げた。
「……たぶん。九十九パーセントの確率で。残りの一パーセントは——また誰かが考えてくれる。ザインさんが理論を作って、誰かが手を動かして。一人じゃなくて。何人かで」
百パーセントの保証はできない。それはサキと同じ嘘になる。しかし九十九パーセントの修理が動作している。その事実は——嘘ではない。
グレゴリウスが——立ち上がった。
ゆっくりと。膝から。腰から。背筋を伸ばして。大司教の姿勢に戻った。しかし石の顔には戻らなかった。青い目が——アカリを見ていた。
「……お前は」
声が低かった。しかし震えは消えていた。
「偽物だったな」
イレーネが——動いた。手帳を持つ手が一瞬止まった。
「偽物の聖女が——本物の修理をした」
グレゴリウスの唇が——動いた。笑みではなかった。しかし石の顔でもなかった。何と呼べばいいかわからない表情。認めがたいものを認める表情。
「……もう言い訳はできないな。儂も」
グレゴリウスが背を向けた。螺旋通路に向かって歩き出した。白い法衣の裾が石の床を擦った。肩章が片方ない背中。
三歩目で——止まった。
振り返らなかった。背中のまま。
「……壁には、もう名前を増やさぬ」
声が石壁に反響した。螺旋通路に消えていった。足音が遠ざかっていった。
アカリはグレゴリウスの背中を見送った。大聖堂で対峙したときの——三十年分の石の壁を。三十七人の名前を刻んだ壁を。その壁が——ひび割れて、光が差し込み始めた背中を。
◇
静かになった。
壁面の白い光が脈打っている。穏やかに。安定して。
エミルたちが石の床に座り込んでいる。疲労で。バルトロメイがエミルの隣に腰を下ろしている。老いた騎士長と若い見習い騎士が、肩を並べて壁にもたれている。
ザインが壁面の前に立っている。回路の状態を確認し続けている。理論家は最後まで理論家だった。
イレーネが——手帳を閉じた。
閉じた。書き終えた。最後のページの最後の行まで書いて、手帳を閉じた。
ティックがアカリの肩の上で、翅を畳んでいた。光を灯す必要がなくなった。壁面の白い光で十分に明るいから。
アカリは部屋の中央に立っていた。
疲れていた。全身が。何時間作業しただろう。五時間か。六時間か。暗闇の中で時間の感覚が消えていた。
手が重い。腕が重い。足が重い。メガネが——鼻の上で重い。
でも立っている。
「……帰らなきゃ」
口から出た。
帰る。どこに。
家。お母さんのご飯。お父さんの作業場。工業高校の電子科。部室の工作台。推しの新作。スマホの充電器。自分のベッド。
帰る場所がある。
マナには帰る場所がなかった。地下室で一人で数式を書いていた。サキには帰る場所がなかった。暴走で全てを失った。ユウには帰る場所がなかった。光になって消えた。
アカリには——ある。
帰る場所が。
レオンが——笑った。
灰色の目が緩んだ。口の端が上がった。笑み。レオンが笑ったのを、アカリは数えるほどしか見ていない。しかし今——笑っていた。
「そうだな」
短い言葉。しかしその二文字に——全てが入っていた。
帰れ。生きて帰れ。お前には帰る場所がある。俺たちが護った——のではない。お前が自分で直した。自分で生き残った。だから帰れ。
「そうだな」。
アカリは——泣かなかった。
泣く代わりに、笑った。
泥だらけの顔で。メガネの奥の目で。血が乾いた手で。155センチの体で。
「帰る」
壁面の白い光が、穏やかに脈打っていた。
暗闇の中に——光が満ちていた。50Hzの唸りが消えた静寂の中に。千年分の痛みが脈動に変わった壁面の中に。
白い光。
聖女の光ではない。回路の光。バイパスを流れる電流の光。修理の光。
その光の中で——アカリは立っていた。
素の私のまま。
帰る場所がある。
それだけで——十分だった。




