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第84話「リストア・コンプリート」

 壁面の白い光が——安定していた。


 脈動のリズムが一定になっている。バイパスを通る電流が安定して、逆流が止まって、ダンパーが余剰を吸収して。回路全体が——呼吸するように、穏やかに脈打っている。


 50Hzの唸りが——消えていた。


 消えた。千年間鳴り続けていた唸りが。魔王城に足を踏み入れたときから聞こえていた低い振動が。お父さんの作業場の配電盤と同じ音が。


 消えた。


 しかし——完全ではなかった。


 アカリの指が壁面の導線に触れている。背中はアルミホイルを通して壁面に密着している。回路の状態が体を通して伝わってくる。


 脈動は安定している。逆流は止まっている。50Hzの唸りは消えた。しかし——回路の深い部分に、微かな振動が残っている。体に伝わるほどの振動ではない。指先を集中させて、ようやく感じられる程度の。


 千年分の痕跡。


 千年間、三十七パーセントの逆流が回路を蝕み続けた痕跡。導線の腐食。接合部の劣化。結晶の析出。バイパスで迂回した八箇所の損傷は直接触れていない——迂回しただけだ。損傷自体は残っている。


 「ザインさん。回路の深部に——まだ微振動が残ってる」


 「わかっている。千年分の物理的劣化はバイパスでは解消できない。導線の腐食も接合部の剥離も、実際に交換しなければ完全には直らない。しかし——」


 「しかし?」


 「現時点のバイパスで、回路の機能は九十九パーセント回復している。残りの一パーセントは——構造的な傷だ。時間をかけて修繕する必要がある」


 九十九パーセント。


 百パーセントではない。


 「……全部は消せなかった」


 アカリが呟いた。


 壁面に背中を預けたまま。千年分の痕跡が指先に触れているまま。


 全部は直せなかった。完璧な修理ではなかった。千年分の傷を一晩の工事で消すことはできなかった。


 しかし——。


 「……それでいい」


 アカリの声は——穏やかだった。


 「傷は癒える。でも痕は残る。それでいい。痕があるから——忘れない。マナが数式を書いたことも。サキが泣いたことも。ユウが写真を撮ったことも。千年分の人たちが痛かったことも。全部——痕が覚えてる」


 百点ではない。九十九点。


 しかしその一点の欠落こそが——千年分の歴史の証だった。


 壁面の奥で——グランの光が、揺れた。


 橙色の光。アカリが「守り方を変えればいい」と言ったときに赤から橙に変わった守護者の光。バイパス工事の間、壁面の中からずっとアカリの作業を見守っていた光。


 その光が——薄くなっていた。


 グランの赤い光は、回路の異常を検知して発動するプログラムだった。異常があるから守護者が起動する。しかし今——回路は九十九パーセント正常に動作している。異常が消えつつある。守護者の起動条件が——消えつつある。


 グランの光が——壁面の導線から滲み出てきた。最後に。


 赤ではなかった。橙でもなかった。白い光。壁面のバイパス回路と同じ色の、白い光。


 光の構造体が壁面の前に浮かんだ。回路の形を模した光の網。しかし網の目が——ほどけていく。


 「……直す、か」


 声が聞こえた。


 グランの声——ではない。グランには声がない。プログラムだから。しかし光が消える瞬間に、導線の振動が空気を震わせて、音になった。金属が微かに共鳴する音。言葉に聞こえたのは——アカリの耳が、そう聞きたかったからかもしれない。


 直す、か。


 千年間、壊れたまま守り続けてきた守護者が。壊れた状態を「正常」として守り続けてきたプログラムが。直されたことを——認識した。


 新しい「正常」を。


 グランの白い光が——消えた。壁面に吸い込まれるように。導線の中に。石の隙間に。回路の交差点に。光の粒子が散って、壁面の白い光と混じり合って——区別がつかなくなった。


 守護者は消えた。


 役目を終えて。千年の任務を解かれて。


 壁面には——白い光だけが、穏やかに脈打っていた。


          ◇


 アカリは壁面からゆっくりと背中を離した。


 アルミホイルが壁面から剥がれた。背中が冷たい。汗が冷えている。


 立ち上がった。膝が震えた。何時間も壁にもたれていた脚が強張っている。


 壁面を振り返った。


 白い光が脈打っている。穏やかに。安定して。バイパス回路が正常に動作している。50Hzの唸りは消えている。グランの光も消えている。


 直った。


 九十九パーセント。しかし——直った。


 エミルたちが鉄棒を回すのを止めた。発電は——もう必要ない。バイパスが自立的に動作している。外部電力なしで。


 エミルが膝をついていた。四人の若い騎士が全員、汗だくで膝をついている。何時間も回し続けた腕が震えている。


 螺旋通路から——足音が聞こえた。重い足音。


 バルトロメイが現れた。


 鎧に傷がついている。額に血が滲んでいる。通路を塞いでいた間に、教団の追手と接触したのだろう。しかし——立っている。生きている。


 「……終わったのか」


 バルトロメイの声が——掠れていた。


 「終わりました」


 アカリの声も掠れていた。


 「誰も——死んでません」


 バルトロメイの目が——震えた。


 二十年前、サキを護れなかった男の目。あの夜から止まっていた目が——動いた。


 老いた騎士長が——膝をついた。


 戦いの膝つきではない。崩れ落ちたのだ。重い鎧の体が、石の床に。


 「……サキ。聞こえるか。直ったぞ。お前の教え子が——直した」


 声が震えていた。バルトロメイの声が。二十年分の。


          ◇


 アカリは部屋の中央に立っていた。


 全員がいた。


 レオン。ザイン。イレーネ。ティック。バルトロメイ。エミルと若い騎士たち。


 壁面の白い光に照らされて。


 アカリは自分の姿を見下ろした。


 ボロボロだった。


 コスプレ衣装は原形を留めていない。装甲パーツは外れている。スカートの裾は破れている。マントは泥で茶色に変わっている。ブーツは傷だらけ。ステッキはない。解体して工具にした。


 手は——血と汗と緑青と銅の屑で汚れている。爪の間に金属片が入り込んでいる。指の腹が擦り切れている。


 背中にはアルミホイル。弁当を包んでいたアルミホイルが翼のように張りついている。


 メガネをかけている。イレーネが拭いてくれたレンズ。イレーネの革紐で結んだ髪。


 155センチ。工業高校電子科二年。お父さんは町の電気屋。推しはアイアン・ベル。


 ——推し。


 ベル。


 ベルなら今、何と言うだろう。


 ベルなら——「ロードアウト、アイアン・ブート!」と叫ぶ。光に包まれて。完璧な変身シーケンスで。LEDが輝いて。歯車が回って。スピーカーからテーマソングが流れて。


 アカリにはLEDがない。歯車はプローブになった。スピーカーは分解した。テーマソングを鳴らす電池がない。変身シーケンスは実行できない。


 ロードアウトは——できない。


 でも。


 「ロードアウトなんかいらない」


 アカリの口から——言葉が出た。


 考えて出した言葉ではなかった。胸の奥から、勝手に出てきた言葉だった。


 「メガネが私の照準器。イレーネさんの革紐が私のティアラ。アルミホイルが私の翼。歯車プローブが私の武器。ザインさんの理論が私の設計図。レオンの肩が私の脚立。ティックの光が私の照明。バルトロメイさんの声が私のリズム。エミルくんたちの腕が私の発電所」


 一つずつ。指折り数えるように。


 「全部揃ってる。全部ここにある。——私の頭が、工具だ」


 レオンが——目を細めた。


 「……それはお前の言葉だな」


 「うん」


 「ベルの言葉じゃない」


 「ベルの言葉じゃない。私の言葉」


 ——しかし。


 アカリの胸の中で、何かが動いた。


 ベルの言葉じゃない。私の言葉。そう言った。しかし——本当にそうだろうか。


 「ロードアウト」はベルの台詞だった。ずっとベルの言葉を借りてきた。借り物の言葉で戦ってきた。メガネを外して、衣装を着て、ベルになりきって。


 しかし——。


 ベルはなぜあの言葉を叫んだのだろう。


 ベルは——魔法少女だった。フィクションのキャラクターだった。しかしベルにはベルの物語があった。ベルも泣いた。ベルも迷った。ベルも仲間に支えられた。ベルも壊れた武器で戦った。ベルも泥だらけになった。


 ベルが「ロードアウト」と叫んだのは——脚本家が書いたからではない。


 ベルが、そこに辿り着いたからだ。


 ベルの物語の中で。ベルの経験の中で。仲間と出会い、失い、戦い、壊れ、それでも立ち上がった末に——ベルは「ロードアウト」と叫んだ。それはベルの到達点だった。


 アカリも——到達した。


 別の道を通って。別の仲間と。別の壊れ方をして。しかし同じ場所に辿り着いた。


 推しの言葉は——借り物じゃなかった。


 先に辿り着いた人の言葉だった。


 アカリの胸が——熱くなった。


 泣きそうになった。しかし泣かなかった。泣く代わりに——口が開いた。


 「リストア・コンプリート」


 声が出た。


 ベルの台詞。アニメの最終話でベルが叫んだ台詞。修理完了。復旧完了。全てを元に戻す魔法の言葉。


 しかし今アカリが言う「リストア・コンプリート」は——魔法ではない。


 八箇所のバイパス。四十五度の合流角度。接地点の三センチ移設。ダンパー二基。歯車プローブで掘った溝。ニッパーで切った導線。石で叩いた圧着。ティックが暗闇を通した銅線。エミルたちが回した車輪。レオンの剣。マナの理論。サキの発見。ユウの記録。


 全部の手作業の結果。魔法ではない。修理。


 ベルの「リストア・コンプリート」は光に包まれた奇跡だった。


 アカリの「リストア・コンプリート」は——泥だらけの手の、九十九点の修理だった。


 同じ言葉。違う意味。しかし——同じ到達点。


 「もう、大丈夫だよ」


 声が——震えていた。しかし嘘ではなかった。


 ユウの「大丈夫だよ」は嘘だった。大丈夫じゃなかった。生きていたかった。


 アカリの「大丈夫だよ」は——本当だった。回路は直った。九十九パーセント。聖女の犠牲は必要ない。もう誰も光にならなくていい。


 大丈夫だよ。


 もう。


 大丈夫。


 壁面の白い光が、穏やかに脈打っていた。アルミホイルの翼が、白い光を反射して銀色に光っていた。


 暗闇の中で。


 メガネをかけたまま。泥だらけの服のまま。血が乾いた手のまま。155センチのまま。


 素の私のまま——ここにいる。

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