第83話「光になんてならない」
ザインが壁面に手を当てた。
「最終起動。旧回路を遮断し、バイパスに全流量を移す。——切り替える」
ザインの手が壁面の導線に触れた。理論家の指が、遮断点に圧力をかけた。
切り替わった。
壁面の光が——変わった。青い光が消えて、白い光が走った。旧回路からバイパスへ。千年間流れていた経路が遮断されて、新しい経路に切り替わった。
その瞬間。
アカリの背中が——燃えた。
比喩ではない。アルミホイルを通して、壁面の回路から、余剰電流が一気に流れ込んできた。
静電気程度——ではなかった。
「——っ!」
声が漏れた。背中から。脊椎を伝って。全身に。電流が走っている。微弱ではない。千年分の余剰エネルギーが、新しいアース経路を見つけて——アカリの体に流れ込んでいる。
旧回路が遮断された瞬間、千年間蓄積されていた逆流エネルギーが行き場を失った。バイパスで逆流は止まった。止まった分のエネルギーが——アースに流れた。アカリの体に。
過渡応答。回路の切り替え直後に起きる一時的な過大電流。ダンパーで吸収するはずだった。しかしダンパーの容量を超えた。千年分のエネルギーは——ダンパー二基では吸収しきれなかった。
痛い。
背中が。腕が。足が。全身が。
——来て、泣いて、光になるの。
ティックの声が脳裏に響いた。初めてティックから聖女の運命を聞いた夜。焚き火の傍で。あの無邪気な声。何百回も同じことを見てきた妖精の、残酷なほど平坦な声。
来て。泣いて。光になるの。
みんなそうだよー。
マナも。サキも。ユウも。来て、泣いて、光になって——消えた。
今、アカリの体にエネルギーが流れている。聖女の体を通して余剰電流を放出する——千年間繰り返されてきた、いつものパターン。光になる前段階。エネルギーが体に充填されていく。飽和すれば——光になる。燃え尽きる。消える。
足元が——光り始めた。
アカリの足元から、白い光が滲んでいる。ブーツの縁から。石の床との接点から。余剰電流が光に変換されている。
壁面の奥で——グランの光が、一瞬、赤に戻りかけた。異常。過大電流。千年間のパターン——聖女が光になる前兆。グランの保全プログラムが「異常」を検知した。赤。警告。しかし——赤は一瞬で消えた。橙に戻った。バイパスが動作している。ダンパーが応答している。旧回路の暴走ではない。過渡応答。一時的。グランのプログラムが——判断を保留した。
ユウと同じだった。ビジョンで見た。ユウの足元から光が這い上がっていった。ゆっくりと。足元から。膝へ。腰へ。胸へ。
ティックが——叫んだ。
「やだ——!」
短い声。語尾が伸びない。レオンの呪いを止めたときと同じ。全意志を込めた声。
「やだ! またなの!? また光になるの!?」
ティックがアカリの肩から飛び立った。アカリの顔の前でホバリングしている。四枚の翅が全開で光っている。燐光が暴走するように明滅している。
「やだよ! もうやだよ! ティック、もう見たくない——!」
レオンが動いた。アカリに向かって一歩。しかし——止まった。何をすればいい。剣はない。発電機の軸になっている。素手で何ができる。電流を止める方法を知らない。
「——壁から離せ!」
ザインが叫んだ。
「アースを切断すれば電流が止まる! 壁から引き剥がせ!」
レオンの手がアカリの腕に伸びた。
「——触らないで」
アカリの声が——止めた。
低い声。震えている。痛みで。しかし——意志がある。
「今引き剥がしたら、過渡応答が吸収されない。回路が不安定なまま戻る。バイパスが壊れる。……全部やり直しになる」
「死ぬぞ!」
レオンの声が——初めて、裏返った。灰色の目が——恐怖で揺れていた。カイルの記憶が。ユウが光になった夜が。また同じことが起きようとしている。
「死なない」
アカリが目を開けた。
壁面に背中を預けたまま。足元の白い光が膝まで這い上がっている。体中に電流が走っている。痛い。全身が痛い。
しかし——目は開いている。メガネの奥の目が。
「死なない。過渡応答は一時的なもの。回路が安定すれば余剰電流は減る。ダンパーが追いつけば——体に流れる電流は下がる。耐えればいい。耐えれば——通り過ぎる」
「耐えられるのか」
「——わからない」
正直に言った。
わからない。計算できない。ザインでも計算できない。千年分の余剰エネルギーがどれだけの時間で減衰するか。アカリの体がそれに耐えられるか。誰にもわからない。
しかし——壁から離れれば、全てが無駄になる。
八箇所のバイパス。四十五度の合流角度。ダンパー。接地点の移設。ティックが暗闇の隙間を通した銅線。エミルたちが回し続けている車輪。バルトロメイが塞いでいる通路。富士山の形の接合部。レオンの剣。マナの三十年。サキの二十年。ユウの十年。
全部が——無駄になる。
「——私は」
光が膝を超えた。腰に達しようとしている。
痛い。
千年分の声が聞こえている。背中のアルミホイルを通して。壁面の回路を通して。
——痛い。 ——助けて。 ——終わらせて。
同じ声。工事の初日に壁面に額を当てたとき聞こえた声。しかし今は——体の中を通っている。背中から入って、胸を通って、足の裏から出ていく。声が体の中を流れている。千年分の痛みが。
痛い。聞こえてる。全部聞こえてる。
——でも。誰も殺さないで。
声の中に——新しい言葉が混じった。
殺さないで。終わらせて。でも——誰も殺さないで。
千年分の痛みの中に、千年分の願いが混じっていた。終わらせてほしい。しかし新しい犠牲は出さないでほしい。もう誰も光にならないでほしい。
「——私は、光になんてならない」
アカリの声が——暗闇に響いた。
震えていた。痛みで。しかし止まらなかった。
「この泥だらけの服のまま。汚れた手のまま。血が出た指のまま。メガネかけたまま。イレーネさんに結んでもらった髪のまま。人間としてここにいる」
光が腰で——止まった。
止まった。
這い上がっていた白い光が、腰の高さで——止まっている。それ以上、上がらない。
ダンパーが効き始めた。過渡応答のピークが過ぎた。余剰電流が減衰し始めている。回路が——安定に向かっている。
「光に包まれて綺麗に消えるなんて——しない。泥だらけのまま生き残る。それが私の選択」
光が——引き始めた。腰から。膝へ。足元へ。ゆっくりと。白い光が引いていく。
痛みが——変わり始めた。
鋭い痛みが、鈍い痛みに変わっている。叫びが、呟きに変わっている。千年分の声のトーンが下がっている。
——痛い。
まだ聞こえている。しかし声量が違う。さっきは絶叫だった。今は——呻き。呻きから、囁きへ。囁きから——。
脈動。
痛みが脈動に変わった。一定のリズムで、弱い痛みが波のように来て、引いて、来て、引く。心臓の拍動のように。しかし心臓ではない。回路の拍動。バイパスが安定して、余剰電流が一定のリズムで排出されている。
穏やかな脈動。
千年分の痛みが——穏やかな脈動に変わった。
壁面の奥で——グランの光が、白に近づいていた。赤に戻りかけた光が、橙を経て、黄色を経て、白に近づいている。壁面のバイパス回路の白い光と——同じ色に。守護者の光が回路の光と区別がつかなくなりつつある。
アカリの体から力が抜けた。壁面にもたれたまま。背中のアルミホイルが壁面に密着したまま。
痛くない——わけではない。微かな痛みはある。脈動のたびに、小さな痛みが波のように来る。しかし耐えられる。静電気程度。最初にアカリが言った通りの——静電気程度の痛み。
過渡応答が終わった。
回路が安定した。
「ザインさん……回路の状態は」
声が掠れていた。叫んだ喉。痛みに耐えた喉。
ザインが壁面の導線に手を当てている。目を閉じている。理論家の指が、回路の状態を読んでいる。
長い沈黙。
「……バイパスは正常動作。逆流は〇・〇三パーセント以下。ダンパーの応答も正常。アース経路の電流量は——許容範囲内。過渡応答は終了した」
「……終わった?」
「終わった。回路は——安定している」
アカリは——壁面にもたれたまま、天井を見上げた。
暗闇の天井。しかし壁面の白い光が天井にも反射して、微かに明るい。
足元の白い光は消えていた。
光にならなかった。
泥だらけのまま。血が滲んだ手のまま。メガネをかけたまま。髪をイレーネの革紐で結んだまま。
消えなかった。
ここにいる。
ティックが——アカリの肩に戻ってきた。ゆっくりと。震える翅で。アカリの首元に顔を押し当てた。小さな体が震えている。
「……光にならなかった」
ティックの声が——小さかった。
「ならなかったよ」
「……よかった」
震えた声。語尾が伸びない。
「よかった」
アカリの手がティックの小さな体に触れた。指先で。血が乾いた指先で。
レオンが——立っていた。動けなかった。アカリが「触らないで」と言ってから、ずっと。動けないまま。拳を握ったまま。
灰色の目が——濡れていた。
泣いてはいない。レオンは泣かない。しかし——目が濡れていた。
「……生きてるか」
「生きてるよ」
アカリが——笑った。
壁面にもたれたまま。泥だらけの顔で。メガネの奥の目で。
「生きてる」




