第82話「ベルの話はいい」
コイルの出力端を壁面に押し当てたまま、左手だけで最終接合に入った。
右手はコイルを押さえている。離せない。離した瞬間に電流が途切れる。左手だけで——銅線の端を導線の溝に押し込んで、銅箔の切れ端を当てて、石で圧着する。
片手で圧着する。
できない——はずだった。両手がなければ。しかしアカリの左手は、お父さんの作業場で鍛えた手だ。右利きだが、左手でも精密ドライバーを回せる。五歳から配電盤の端子を触ってきた手だ。
銅箔を導線の溝に当てた。左手の親指で押さえて、人差し指と中指で石の欠片を挟んで——叩いた。
がん。
弱い。片手では力が足りない。もう一度。がん。がん。
三回目で——銅箔が導線に密着した。圧着。
接合部を指で触った。
形を確認した。暗闇の中で。指先だけで。
——綺麗だった。
接合部の表面が滑らかな曲線を描いている。銅箔が導線の表面に沿って、裾野が広がるように密着している。頂点が少し尖って、裾が緩やかに広がる形。
富士山の形。
お母さんが教えてくれた。お父さんではなくて、お母さん。
お母さんは電気工事士ではなかった。しかしお父さんの仕事を手伝っていた。ハンダ付けの仕上がりを見て、「この接合、富士山の形になってるね。綺麗」と言っていた。お父さんが笑った。「それが一番丈夫な形なんだ。母さんは見る目がある」。
良いハンダ付けは富士山の形になる。裾野が広く、頂点が安定して、応力が均等に分散する。教科書には「フィレット形状」と書いてある。しかしアカリの家では「富士山」だった。
指先に——富士山がある。
暗闇の中で。片手で。泥と血で汚れた左手で。ハンダごてもなく、石で叩いただけの圧着で——富士山の形ができた。
「……お母さん」
声が漏れた。
「できたよ」
小さな声。誰にも聞こえなかったかもしれない。エミルたちが鉄棒を回す音。バルトロメイの号令。50Hzの唸り——弱まっているが、まだ消えていない。その中で、アカリの声は小さかった。
しかしザインが——接合部を見ていた。
暗闇の中で。壁面の白い光に照らされた接合部を。富士山の形を。
何も言わなかった。
理論家が実装者の仕事を見て、何も言わないこと。それが——敬意だった。数式では表現できない「形」の美しさ。理論の裏付けではなく、手が作り出した形の正しさ。ザインはそれを見て、黙った。
接合完了。
右手をコイルからゆっくり離した。恒久的に接合されたから——もう手で押さえなくていい。電流は流れ続ける。バイパス回路が自立的に動作している。
両手が空いた。
アカリは壁面の前に座り込んだ。両手を膝の上に置いた。血と汗と銅の屑で汚れた手。爪の間に緑青が入り込んでいる。指の腹が擦り切れている。
しかし——回路は動いている。
壁面の白い光が脈打っている。50Hzの唸りが弱まっている。バイパスが機能している。
「ザインさん。回路の状態は」
「バイパスは正常に動作している。逆流は〇・〇三パーセントまで低下した。ダンパーの過渡応答吸収も設計通りだ。しかし——」
「アースが繋がってない」
「そうだ」
アース。接地。余剰電流の排出先。
回路が動作すれば余剰電流が発生する。その余剰電流を大地に逃がすのがアース。家庭の配電盤では緑色の線——接地線。大地に埋めた金属棒に繋がっている。
この部屋には——大地に繋がるアースがない。
石の床。石の壁。石の天井。全て石。石は絶縁体。電気を通さない。導線は壁面の中を走っているが、大地への接地は——ない。千年前の設計では、聖女の犠牲がアースの代わりだった。聖女の体を通して余剰電流を放出していた。光になるとは——そういうことだった。
聖女がアース。
人間の体が接地線。
「……導電体が、回路と大地の間に必要」
アカリが呟いた。
導電体。金属。回路の接地点から、石の床を貫いて、大地に至る導体。
金属——アルミホイル。
残り三十センチ四方のアルミホイル。導電体。薄いが面積がある。面積があれば——石の床の微細な水分を通して、大地への導通が得られるかもしれない。
しかし三十センチ四方では足りない。回路の接地点から石の床まで、アルミホイルを橋渡しする必要がある。接地点は壁面の高さ百センチの位置。床まで百センチ。アルミホイルは三十センチ。
七十センチ分の導体が足りない。
「……私が繋ぐ」
アカリが言った。
全員が——アカリを見た。
「アルミホイルを背中に当てる。背中のアルミホイルで壁面の接地点に触れて。足の裏を石の床につける。私の体が——回路と床の間の導体になる」
人間の体は——導電体だ。完璧ではない。抵抗が大きい。しかし——導通はある。汗で湿った肌ならなおさら。アルミホイルを肌に密着させれば、アルミ→皮膚→体液→足の裏→石の床の微細な水分→大地、という経路が成立する。
「……お前が、回路の一部になるのか」
レオンの声が——低かった。
回路の一部。聖女がアースになる。千年間、聖女たちがやらされてきたことと——同じ。
「同じじゃない」
アカリが首を振った。
「聖女たちは回路の欠陥のせいで、全身に千年分のエネルギーを通されて、燃やされた。私がやるのはアースだけ。余剰電流の排出。通るのは微弱な電流だけ。バイパスが正しく機能していれば——体に流れるのは、静電気程度の電流のはず」
「はず、か」
「……はず」
正直に言った。計算上はそうだ。しかしザインでさえ、アカリの体を通る電流の正確な値は計算できていない。魔力と電流は同じ原理で動くが——人間の体との相互作用は未知数だ。
「でも大丈夫。ベルだって、アイアン・レガシー編でエネルギー回路に自分の体を——」
口を閉じた。
ベルの話。アニメの話。フィクションの話。ベルがやったから大丈夫——それは根拠にならない。ベルは創作のキャラクターだ。脚本家が生存を保証している。アカリには脚本家がいない。
「……いや」
アカリは目を閉じた。一秒。目を開けた。
「ベルの話はいい。私がやる。私の判断で」
ベルの引用が——消えた。
異世界に来てからずっと、アカリはベルの台詞を借り続けてきた。「ロードアウト」。「大丈夫」。「負けない」。全部ベルの言葉だった。借り物の言葉で戦ってきた。
しかし今——ベルの話を自分で止めた。
ベルがやったからではない。ザインが計算したからでもない。アカリが判断したから。やる。
「やる」
アカリが立ち上がった。
アルミホイルを広げた。三十センチ四方。薄い金属の膜。弁当を包んでいたアルミホイル。最初からバックパックに入っていたもの。異世界に持ってきたもの。
背中に当てた。
衣装の上から——いや、衣装の下に入れた。肌に直接触れるように。汗で湿った肌に、冷たいアルミホイルが張りついた。
翼のように。
コスプレ衣装の翼パーツは壊れている。しかしアルミホイルが背中に広がると——翼の形に似ていた。銀色の。薄い。壊れやすい。しかし——導電性がある。ベルの翼は光って飛ぶためのもの。アカリの翼は電気を通すためのもの。
背中にアルミホイルを当てたまま、壁面に近づいた。接地点の位置。百センチの高さ。
その時。
手が——伸びてきた。
イレーネの手だった。
「邪魔」
短い声。イレーネがアカリの前に立っていた。暗闇の中で。修道服の輪郭だけが見える。
イレーネの手が——アカリの顔に触れた。
違う。顔ではない。髪に。
アカリの髪が顔にかかっていた。汗で張りついた前髪。頬にかかった横の髪。作業の邪魔になって、何度も手で払っていた。しかし払っても払ってもまた落ちてくる。汗で重くなっているから。
イレーネが——手帳を開いた。手帳の背表紙の革に、栞の革紐が挟んであった。薄い革紐。長さ二十センチほど。
革紐を——抜いた。
手帳から。記録者の道具から。
イレーネの手がアカリの髪を集めた。後ろで束ねた。汗で湿った髪を、細い指で梳かして、一つにまとめて。革紐で結んだ。
「作業の邪魔です」
イレーネの声は平坦だった。いつもの声。報告書の声。しかし手帳の革紐をアカリの髪に使った。記録者の道具の一部を——実装者に渡した。
髪が上がった。顔がはっきり見えた。
レオンが——一瞬、目を止めた。
暗闘の中で。壁面の白い光に照らされた、アカリの顔。前髪が上がって額が出ている。メガネのつるがはっきり見える。汗と涙と埃で汚れた顔。しかし——初めて、アカリの顔の輪郭がはっきり見えた。
レオンの灰色の目が——ほんの一瞬だけ、揺れた。
それだけだった。一瞬だけ。すぐにレオンは目を逸らした。
「……ありがとう、イレーネさん」
「早くしなさい。記録が追いつかない」
嘘だ。暗闇の中で見えない文字を書いているイレーネの記録が、追いつかないはずがない。しかしアカリは笑わなかった。真顔で頷いた。
壁面に背中を当てた。
アルミホイルが壁面の接地点に触れた。背中→アルミホイル→接地点。上半身の接続完了。
足の裏が石の床についている。素足ではない。ブーツを履いている。しかしブーツの底が汗で湿っている。石の床も微かに湿っている。地下だから。完全な導通ではないが——微弱な電流なら通る。
アカリが——回路の一部になった。
壁面のバイパス回路。接地点。アルミホイル。アカリの体。石の床。大地。
一本の線で繋がった。
壁面の奥で——グランの光が、アカリの背中に触れている部分だけ、淡く温かくなった。黄色が——少しだけ白に近づいている。千年間、聖女の体が接地線になるたびにグランが検知してきたパターン。しかし今回は違う。燃やすための接続ではない。排出するための接続。グランのプログラムがその差を——計測しようとしている。
「……準備完了」
アカリの声が——静かだった。
壁面に背中を預けている。両手は空いている。メガネをかけている。髪はイレーネの革紐で結ばれている。背中にアルミホイルの翼がある。
足元から——微かな振動を感じた。
回路の余剰電流が、体を通って、床に流れ始めている。
静電気程度——の、はずだ。
まだ、痛くない。
「ザインさん。最終起動を」
暗闇の中で。全員が——いた。
エミルたちが鉄棒を回している。バルトロメイの号令が響いている。ザインが回路を監視している。レオンが立っている。イレーネが記録している。ティックが肩の上で光っている。
◇
——聖女監察報告書 最終記録 記録官イレーネ——
対象は自らの体を回路に接続した。余剰電流の排出経路として。聖女の犠牲と同じ構造だが、目的が異なる。燃やすためではなく、逃がすために。
対象の背中にはアルミホイルが張りついている。私が結んだ革紐で髪がまとめられている。私が拭いたメガネをかけている。
偽物である。判定は変わらない。
しかし今この瞬間、偽物の聖女が千年の回路に背中を預けて、本物の修理を完成させようとしている。
この報告書を提出すれば、彼女は処刑される。
付記:どうか。
◇
アカリは壁面に背中を預けて、目を閉じた。
回路の鼓動が——背中から伝わってきた。




