第79話「ティックにしかできないの」
六番目の損傷箇所のバイパスが完了した。七番目も完了した。
残り一箇所。八番目。天井付近。台座から三メートル上方。導線の交差点。ショートのリスクがある箇所。
レオンの肩に乗って、壁面の高所に手を伸ばした。歯車プローブで溝を掘った。銅線を通した。圧着した。
しかし——問題があった。
八番目のバイパスを本線に接続するためには、壁面の裏側に銅線を一本通す必要があった。壁面の表面に露出した導線と、壁面の裏——石の内部を通る導線を繋ぐ。そのために、壁面にある小さな貫通穴を使う。
穴はあった。千年前の設計者が導線を通すために開けた穴。直径二センチほど。壁面の表から裏へ、石の厚みを貫いている。
しかし——二センチでは指が入らない。
アカリの人差し指は——太い。お父さん譲りの、工業高校の電子科の、配線をいじり続けた指。指先だけなら入るが、銅線を持った状態では通らない。精密ドライバーの先端で押し込もうとしたが、銅線が途中で引っかかる。穴の内部にも堆積物がある。千年分の。
「……届かない」
レオンの肩の上で、アカリの手が止まった。
穴の入口まで銅線を押し込めた。しかしそこから先——壁の厚み十五センチを通して、裏側に出す方法がない。向こう側で受け取る手がない。
「ニッパーの先端は?」
ザインが下から聞いた。
「太すぎる。穴の中で堆積物に引っかかる。無理に押し込むと銅線が折れる」
沈黙。
二センチの穴。十五センチの壁厚。向こう側に銅線を通す。
人間の手では——できない。
肩の上で——重さが動いた。
ティックが翅を広げた。アカリの肩から飛び上がった。壁面の穴の前でホバリングしている。四枚の翅が暗闇の中で微かに光っている。
小さな体。手のひらに乗るサイズ。頭からつま先まで——十センチあるかないか。
二センチの穴なら——入れる。
アカリとティックの目が合った。暗闇の中で。ティックの翅の燐光に照らされて。
「ティック」
「……うん」
「この線を、向こう側に通してくれない?」
銅線の端をティックに見せた。細い銅線。ティックの両手で掴めるサイズ。
ティックが穴を覗き込んだ。暗い。穴の中は真っ暗だ。十五センチの石の隧道。二センチの直径。ティックの体がぎりぎり通れる太さ。翅を畳めば——通れる。
「……暗いよ」
ティックの声が——小さかった。
「怖いよ」
怖い。そうだろう。狭い。暗い。翅を畳まなければ通れない。翅を畳めば光が消える。光が消えた暗闇の中を、石の隧道を、一人で——。
「……お願い」
アカリの声も——小さかった。
「ティックにしかできないの」
ティックの翅が——止まった。ホバリングが一瞬途切れて、ふわりと高度が下がった。すぐに持ち直した。
「……ティックにしか?」
「ティックにしか」
暗闇の中で。壁面の穴の前で。妖精と人間が見つめ合っている。
ティックの目が——大きくなった。いつもの大きな目が、さらに大きくなった。何かを決めようとしている目。
「……わかった」
短い声。語尾が伸びない。
ティックが銅線の端を両手で掴んだ。小さな手で。しっかりと。銅線はティックの体の半分くらいの長さがある。重い——ティックの体にとっては。しかし掴んだ。
翅を——畳んだ。
四枚の翅が背中に折りたたまれた。燐光が消えた。アカリの視界からティックの光が消えた。
暗闇。
ティックが穴に入った。
小さな体が石の隧道に消えていく。二センチの穴の中に。暗闇の中に。銅線の端を握って。
「ティック——」
返事がなかった。穴の中から音が聞こえた。かさかさという音。ティックの体が石の内壁を擦る音。堆積物が剥がれ落ちる音。銅線が引きずられる音。
三秒。五秒。十秒。
長い。
十五センチの壁厚。人間にとっては何でもない距離。しかしティックの体にとっては——体長の一倍半。暗闇の中で。翅を畳んで。光なしで。
十五秒。
壁面の裏側に——レオンが回っていた。アカリがまだ肩に乗っている状態で、壁の横に体を滑り込ませて、裏側を覗いている。
「——見える」
レオンの声が壁の向こうから聞こえた。
「穴から——光が」
光。
ティックが——翅を開いたのだ。穴を通り抜けた向こう側で。狭くて翅を開けなかった石の隧道を抜けて。裏側に出た瞬間に。
「……通ったよ」
ティックの声が、壁の向こうから聞こえた。
震えていた。
「できたよ」
語尾が——伸びなかった。「できたよー」ではなかった。短い。硬い。怖かった。暗かった。翅を畳んだ石の隧道は怖かった。でも——通った。
「ティック——!」
アカリの声が裏返った。
「ありがとう。ありがとう——」
壁の向こうで、ティックの翅が——光った。レオンの報告では、穴から微かな金色の光が漏れている。ティックの燐光。怖くて畳んでいた翅を全開にして、光を灯している。暗闇を追い払うように。
銅線は——通っていた。壁面の裏側に。ティックの小さな手が、十五センチの闇を越えて、銅線を運んだ。
レオンが裏側で銅線の端を受け取った。アカリの指示通り、導線の溝に押し込んだ。圧着はアカリがもう一度肩に乗ってやる必要がある——しかし銅線は通った。
八箇所目のバイパス。最後の接続。
あとは圧着だけ。
壁面の奥で、グランの橙色の光が——穴の周りだけ、わずかに引いていた。ティックが通った穴。新しい銅線が通った穴。グランの保全プログラムが、新しい経路を「損傷」ではなく「接続」として検知したのかもしれない。
◇
レオンの肩から降りた。
石の床に膝をついた。疲労。何時間作業しただろう。三時間か、四時間か。暗闇の中では時間の感覚がない。
手が震えている。疲労で。右手の指の腹が擦り切れていて、血が乾いた跡がごわごわしている。メガネが——曇っている。汗と埃と涙とティックの光の粉で、レンズがほとんど不透明になっている。
レンズを通して見える世界が、ぼやけている。壁面の自発光すら滲んでいる。
拭こうとした。右手で。しかし右手は血と汗と銅の屑で汚れている。拭けば余計に汚れる。
「——貸しなさい」
声が聞こえた。
イレーネの声だった。
手が伸びてきた。暗闇の中から。修道服の袖が見えた。白い布。
イレーネの手が——アカリのメガネに触れた。
つるに指をかけて。ゆっくりと。アカリの耳から外した。
メガネがなくなった。世界がさらにぼやけた。アカリの裸眼は近視だ。メガネなしでは壁面の導線の配置すら見えない。
イレーネの手が——メガネを持っている。暗闇の中で。修道服の袖を伸ばして。袖の内側の、汚れていない白い布で。レンズを——拭いている。
丁寧に。ゆっくりと。右のレンズ。左のレンズ。つるの汚れも拭いている。鼻あての部分も。
イレーネの手帳を持つ手は正確だった。ペンを走らせる手は淡々としていた。しかしメガネを拭く手は——丁寧だった。壊れやすいものを扱うように。
拭き終わった。
イレーネの手が——メガネをアカリの顔に戻した。つるを耳にかけて。鼻あてを整えて。
世界が——鮮明になった。
壁面の自発光がはっきり見えた。導線の配置が見えた。ティックの燐光が見えた。レオンの灰色の目が見えた。ザインの白い外套が見えた。全部、鮮明に。
「……見えなければ、直せないでしょう」
イレーネの声は平坦だった。いつもの報告書の声。しかしメガネを拭く理由を「報告書のため」とは言わなかった。「直せないでしょう」と言った。アカリの作業のために拭いた。
監視者が——手帳以外のものに手を触れた。
「……ありがとう、イレーネさん」
イレーネは答えなかった。手帳に戻った。暗闇の中で、見えない文字を書き続けている。
◇
最後の圧着が終わった。
八箇所全てのバイパスが完了した。接地点の移設。合流角度の変更。ダンパー二基。損傷迂回経路。全て——配線が終わった。
アカリは壁面の前に座り込んだ。石の床に。背中を壁につけて。
「……配線完了」
声が掠れていた。何時間も声を出し続けた喉。泣いた喉。
ザインが壁面の回路を指でなぞっている。配線を確認している。理論家の指が実装者の仕事を検証している。
「——配線に問題はない。バイパスの経路は設計通りだ。ダンパーの巻き数も正しい。合流角度は四十五度。理論上、逆流は〇・〇四パーセント以下に抑えられる」
「じゃあ——」
「しかし」
ザインの声が——止まった。
「起動できない」
「……え?」
「バイパス回路の配線は完了した。しかし回路を切り替えるには——初期電力が必要だ。旧回路を遮断して新回路を起動する。その切り替えの瞬間に、外部からの電力供給がなければ回路が一瞬途切れる。封印が一瞬でも途切れれば——」
暴走。
「電力が——」
アカリの声が途切れた。
電力。電気。スマホは死んでいる。ボタン電池は空。モバイルバッテリーは空。テスターの電池も死んでいる。この世界にコンセントはない。発電所はない。
「電気が……必要なんだ」
レオンがアカリの方を見た。
「電力とは何だ。お前の世界の言葉で説明しろ」
「動力。何かを動かす力。磁石の近くで金属を回せば——電気が生まれる。発電。モーターの原理。車輪を回せば——」
車輪。
レオンの目が——動いた。
アカリの手元を見ていた目が。歯車プローブを見ていた目が。
壁際に移動した。鞘の中の剣に——目が止まった。
そして——もう一度、アカリの手元を見た。
歯車プローブ。ステッキから外した真鍮の歯車。十二本の歯。回転する金属。
歯車。車輪。磁石。スピーカーから外した永久磁石。
歯車と磁石があれば——発電機が作れる。
レオンの灰色の目が——剣を見た。
「……俺の剣を使え」
アカリの目が見開かれた。
「電極にするんだろう。俺の剣を——お前の工具にしろ」
介錯の剣。人を殺すために鍛えられた剣。処刑騎士の剣。千年の歴史の中で、聖女を殺すために振るわれ続けてきた剣。
その剣が——修理の道具になる。
暗闇の中で、レオンの灰色の目がアカリを見ていた。
揺るぎない目だった。




