第78話「大丈夫じゃなくても、生きていたかった」
工事は三時間を超えていた。
接地点の移設が終わった。合流角度の変更が終わった。ダンパーを一つ設置した。銅線を渦巻き状に七回巻いて、導線の溝に圧着した。残り一つ。
四箇所の損傷を迂回するバイパスを敷設した。銅線リールの残りが減っていく。三メートルあった銅線が、一メートル半になった。足りるかどうか。ぎりぎり。
歯車プローブの歯は、さらに三本が丸まった。残り七本。
アカリの右手は——血が滲んでいた。暗闇の中では見えないが、触ればわかる。プローブを握り続けた指の腹が擦り切れている。ニッパーの刃で指先を切った。銅線の端で手のひらを引っ掻いた。血が乾いて、また血が出て、また乾いて。
止まらない。手を止められない。時間がない。バルトロメイが通路で時間を稼いでいる。教団が動いているかもしれない。
壁面の奥で——グランの橙色の光が、微かに脈打っていた。アカリの手が動くたびに、光が揺れる。手が止まると、光も止まる。アカリの作業を——追っている。壊しているのではないことを、検知し続けている。
五番目の損傷箇所のバイパスに取りかかった。台座の左側面。導線の交差点。
歯車プローブの歯先を導線の溝に当てた。新しい溝を——
指が、止まった。
壁面の導線から——何かが流れ込んできた。
温度ではない。振動でもない。もっと直接的な何か。指先から腕を通って、胸に落ちた。
映像。
目を閉じていないのに——暗闇の中に映像が浮かんだ。
◇
少女がファインダーを覗いている。
黒い一眼レフ。日本のメーカーのエントリーモデル。ストラップが首にかかっている。制服の上から。ブレザー。十年前のデザイン。
顔は見えない。カメラの背面液晶の光が、顎の輪郭だけを照らしている。細い顎。まっすぐな髪。前髪が目にかかりそうなほど長い。
ユウ。
アカリにはわかった。十六歳の聖女。写真部。クールで寡黙。ファインダー越しに世界を見る少女。十年前にここにいた少女。
ユウはカメラを壁面に向けていた。回路を撮っていた。導線の配置。損傷箇所。接合部の劣化。全部を記録していた。アカリがスマホで撮ったのと同じものを——十年前に、一眼レフで。
シャッター音が暗闇に響いた。かしゃ。かしゃ。かしゃ。規則的な連射。写真部の腕。構図を決めて、ピントを合わせて、迷わず切る。
かしゃ。
ユウがカメラを下ろした。
顔が見えた。
十六歳の顔。表情が薄い。しかし目は——生きている。暗い場所でもファインダーを覗き続ける目。観察者の目。アカリの写真で見たのと同じ目——スマホのSDカードリーダーで読み込んだ、あの自撮り写真の目。
ユウの唇が動いた。
「——大丈夫だよ」
笑った。
薄い表情の少女が——笑った。口角がほんの少し上がった。目が細くなった。カメラを胸の前に抱えて。
「大丈夫だよ」
誰に向けて言っているのか。隣にいるはずのカイル——護衛騎士に。十年前のこの場所で、カイルが隣にいたはずだ。レオンがアカリの隣にいるように。カイルがユウの隣にいた。
大丈夫だよ。
いつもそう言っていたのだろう。クールで寡黙な少女が、唯一多く使った言葉。カイルを安心させるための言葉。自分を安心させるための言葉。大丈夫。大丈夫だよ。
映像が——揺れた。
ユウの顔が変わった。笑顔が消えた。カメラを下ろした手が——震えている。
別の場面。もっと後。台座の近く。ユウが台座の前に立っている。光が始まっている。聖女の封印の儀式。ユウの体が——光り始めている。足元から。ゆっくりと。
光になる。
来て、泣いて、光になって、消える。ティックが何百年も見続けてきた、いつもの結末。
ユウの目に——涙はなかった。表情が薄いまま。クールなまま。十六歳の少女は最後までクールだった。
しかし——唇が動いていた。
声にならない声。光に包まれながら。体が透けていきながら。最後の最後に——唇だけが動いていた。
「大丈夫だよ」ではなかった。
「——大丈夫じゃなくても」
声が——聞こえた。アカリの指先から流れ込んでくる。壁面の回路に残った、十年前の声の残滓。
「大丈夫じゃなくても、生きていたかった」
ユウの目が——光っていた。涙ではない。光に包まれて透けていく体の中で、目だけが最後まで残っていた。カメラのファインダーを覗き続けた目。世界を観察し続けた目。
その目が——言っていた。
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。怖い。死にたくない。まだ撮りたいものがある。まだ見たいものがある。カイルの隣にいたい。写真部の暗室に戻りたい。文化祭の展示を見たい。お母さんのご飯を食べたい。
大丈夫じゃなくても。
それでも。
生きていたかった。
◇
映像が消えた。
暗闘が戻った。壁面の導線の感触が指先に戻った。歯車プローブが手の中にある。
アカリの頬が——濡れていた。
泣いていた。知らない間に。ユウのビジョンを見ている間に、涙がメガネの下から流れていた。
「……っ」
声が漏れた。嗚咽。
大丈夫じゃなくても、生きていたかった。
「大丈夫だよ」と笑った少女の——本当の言葉。カイルに心配をかけないために笑った。最後まで笑い続けた。しかし唇は——本当のことを言っていた。声にならない声で。光に包まれながら。
——ベルも、そうだったのだろうか。
一瞬、頭をよぎった。アニメの中でベルが「大丈夫」と笑ったとき。あの笑顔の裏にも——大丈夫じゃない本音があったのだろうか。ベルも怖かったのだろうか。ベルも震えていたのだろうか。
考えるのは一瞬だった。手が動いている。作業が止まっていない。しかしその一瞬が——胸の奥に残った。
レオンが——動いた。
アカリの後ろに立っていたレオンが、一歩前に出た。壁面を見ていた。アカリの指先が触れている壁面を。ユウの声が残っている壁面を。
レオンの目が——揺れていた。
カイルの目を思い出している。訓練生だった頃、回廊ですれ違った男の目。空洞だった目。剣を振った後に空になった目。
カイルは知っていたのだろうか。ユウの本当の言葉を。「大丈夫だよ」の裏にあった「生きていたかった」を。知らなかったのだろう。だから目が空洞になった。「大丈夫だよ」を信じて——信じたまま——介錯した。大丈夫じゃなかったことを、知らずに。
「……レオン」
アカリの声が震えていた。涙声だった。しかし手は壁面から離していなかった。
「聞こえた?」
「……ああ」
レオンの声も——震えていた。
「大丈夫じゃなくても、生きていたかったって。ユウは——そう言ってた」
レオンは答えなかった。しかし灰色の目が——湿っていた。暗闘の中で、壁面の自発光に照らされた灰色の目の縁に、微かな光が揺れていた。
泣いてはいない。レオンは泣かない。しかし——目が湿っていた。
カイルに聞かせたかった。ここにいないカイルに。空洞の目をした男に。お前が殺した少女は「大丈夫」じゃなかったんだと。生きていたかったんだと。お前のせいじゃないと。お前が悪いんじゃないと。
レオンの手が——無意識に、鞘に触れた。剣の鞘に。しかし柄には触れなかった。鞘の表面を——撫でた。呪いの衝動ではなかった。カイルへの——弔いのような仕草だった。
「知ってる」
アカリが壁面に向かって言った。ユウに向かって。回路の中に残った残滓に向かって。
「わかってるよ。大丈夫じゃなかったって。生きていたかったって」
涙が落ちた。メガネのレンズに。視界が歪んだ。
「だから——直す」
歯車プローブを握り直した。血が滲んだ右手で。涙で曇ったメガネのまま。
五番目の損傷箇所。溝を掘る。がり。がり。
泣きながら——手を動かした。
ユウが生きていたかった世界を。もう誰も光にならなくていい世界を。直すために。
がり。がり。がり。
金属を削る音が、暗闇に響き続けた。涙が顎から落ちて、石の床を濡らした。しかし手は——止まらなかった。




