第77話「守り方を変えればいい」
がり。がり。がり。
歯車プローブで壁面の石を削っている。新しい溝を掘っている。接地点を三センチ移すための溝。幅二ミリ。深さ三ミリ。銅線を一本通すための細い溝。
石は硬い。真鍮の歯車で削るには硬すぎる。歯が摩耗していく。十二本の歯のうち、すでに二本が丸まっている。残り十本。十本で——何メートルの溝が掘れるか。
がり。がり。
手が痛い。歯車を回すために精密ドライバーを握り続けている右手が。握力が落ちてきている。指の腹が赤くなっている。暗闇の中では見えないが——感触でわかる。熱い。擦れている。
「……三センチ完了」
接地点の移設。三センチの溝。掘れた。
次は合流角度の変更。七十度から四十五度へ。既存の導線の進行方向を変える。導線を切断して、新しい角度で再接続する。
ニッパーを取った。導線に刃を当てた。
切る。
千年前の導線を——切る。
一瞬、指が止まった。
この導線を切った瞬間、回路の一部が途切れる。封印の回路の一部が途切れる。暴走が起きるかもしれない。グレゴリウスが警告した通り。サキの暴走のように——。
「切れ」
ザインの声が飛んだ。
「この区間はバイパス経路で迂回済みだ。切断しても本線の流量に影響はない。計算した。切れ」
ザインが計算した。ザインが裏付けた。
切った。
ぱちん。
ニッパーの刃が導線を断ち切った。金属が切れる小さな音。
——何も起きなかった。
暴走は起きなかった。50Hzの唸りが一瞬だけ高くなって、すぐに戻った。回路は——持ちこたえた。ザインの計算が正しかった。
「……大丈夫。切れた。暴走なし」
息を吐いた。知らない間に息を止めていた。
切断した導線の端を、四十五度の角度で曲げた。ニッパーの腹で。銅線を新しい溝に通した。接合部にLED基板から取った銅箔片を当てて、石で圧着した。がん。がん。小さな金属音。
接合。圧着。導通確認——テスターは電池が死んでいる。代わりに指を当てた。
温かい。
導線に温もりが戻っている。魔力が流れ始めている。四十五度の合流。逆流なし。一方通行。
「——通った」
その瞬間。
壁面が——震えた。
50Hzの唸りではない。もっと深い振動。壁全体が。床が。天井が。空気が。
ティックが肩の上で翅を畳んだ。「……なにこれ」
レオンが剣の柄に手を——かけかけて、止めた。師匠の言葉を思い出した。「剣はもう抜くな」。手を離した。しかし体は臨戦態勢に入っている。
振動が収まった。
代わりに——壁面の自発光が、変わった。
青かった光が、赤に変わっている。壁面の回路の導線が、青い光ではなく赤い光を放っている。警告色。
そして——壁面の中から、何かが滲み出てきた。
光。赤い光。壁面の回路の交差点から。導線の接合部から。石の隙間から。赤い光が染み出して、壁面の前に——凝縮した。
人の形ではなかった。
回路の形だった。導線の配置を模した光の構造体。壁面の回路図が三次元に浮き上がったような——赤い光の網。
グラン。
ザインが呟いた。「……来たか」
「知ってるの?」
「ストレージの守護者。千年前にこの回路と同時に作られた防衛機構。回路に異物が接触すると発動する。マナの文献に記述があった」
守護者。千年間、この回路を守り続けてきた存在。
グランの赤い光が——アカリに向いた。
向いた、としか表現できない。目があるわけではない。顔があるわけでもない。しかし光の構造体の一部が、アカリの方に——集中した。注意を向けている。敵意ではない。しかし警戒。
導線を切った。溝を掘った。回路に手を触れた。千年間誰も触れなかった回路に——異物が触れた。
グランが——動いた。
赤い光の網が広がった。壁面を覆うように。アカリが作業していた箇所を覆うように。接地点の新しい溝を。切断した導線を。圧着した接合部を。
覆って——固めようとしている。
元に戻そうとしている。
アカリが掘った溝を埋めて。切った導線を繋いで。変えた角度を七十度に戻して。千年間の状態に——復元しようとしている。
「——やめて」
アカリが言った。
グランの光が止まった。
「あなたは——この回路を守ってるんでしょ」
赤い光が——微かに揺れた。肯定とも否定ともつかない揺れ。
「千年間、ずっと。壊れても。逆流しても。50Hzで唸っても。聖女が死んでも。ずっと、この回路を守ってきた」
揺れが——大きくなった。
「壊れたものを、壊れたまま守り続けてきた」
光が——赤から、少しだけ暗い赤に変わった。
ザインが壁際から声を出した。「グランには意志がない。プログラムだ。回路の状態を保全するようにプログラムされている。千年前の状態に戻すことが——グランの使命だ」
千年前の状態。七十度の合流角度。三十七パーセントの逆流。50Hzの唸り。聖女を十年ごとに燃やさなければ維持できない、壊れた回路。
グランは——それを「正常」だと思っている。千年前の設計がそうだったから。千年前の回路がそうだったから。壊れた状態が——グランにとっての「正常」。
「……守り方を変えればいい」
アカリが言った。
グランの光が——止まった。完全に。
「壊れたまま守るんじゃなく。直して守る。逆流を止めて。50Hzを消して。聖女を燃やさなくて済むようにして。直した状態を——新しい『正常』にする」
赤い光が——揺れている。
「千年前の設計が間違ってたんだよ。合流角度が七十度だった。四十五度にすれば逆流は止まる。接地点を三センチ移せばリークも止まる。直せるの。直せるんだよ。あなたが守ってきたものを——壊すんじゃない。もっと良くするの」
グランの光が——変わった。
赤が——薄くなった。完全に消えたわけではない。しかし警告の赤が、もっと淡い色に——橙に近い色に変わった。
グランの目が変化した——とザインなら言うだろう。しかし目はない。光の色が変わっただけだ。
しかしアカリには——わかった。
グランが、アカリの作業を見ている。接地点の新しい溝を。四十五度の合流角度を。圧着された接合部を。新しい回路の、最初の一区画を。
壊しているのではない。
直している。
グランの光が——壁面から引いた。アカリの作業箇所を覆っていた赤い網が、ゆっくりと後退した。溝を埋めようとしていた力が、消えた。
許可ではない。グランにはそんな判断能力はない。プログラムだから。しかし——アカリの作業が回路を「壊している」のではなく「変えている」ことを、グランのシステムが検知した。破壊ではなく改修。グランの保全プログラムは、改修を攻撃と判定しなかった。
赤い光が壁面に戻っていく。導線の中に。石の隙間に。回路の交差点に。
グランが——見ている。
壁面の中から。回路の中から。アカリの作業を。
守護者は消えなかった。しかし——邪魔もしなくなった。
「……行けるか」
ザインが聞いた。
アカリは歯車プローブを握り直した。右手の指の腹が赤い。痛い。しかし握れる。
「行ける」
壁面に向き直った。次の工程。ダンパーの設置。銅線を渦巻き状に巻いて、インダクタを作る。七回巻き。直径は導線の太さの三倍。
作業を再開した。
暗闇の中で。ティックの燐光だけを頼りに。千年分の声が聞こえる壁面の前で。
グランの淡い橙色の光が、壁面の奥で——脈打っていた。
見守っている。
千年間、壊れたまま守り続けてきた守護者が——直す作業を、見守っている。




