第76話「こうすれば一方通行になる」
歯車プローブの歯先が、壁面の導線の溝に入った。
固い。千年分の堆積物が溝を埋めている。酸化物と塵と、微細な結晶のようなもの。魔力が長い時間をかけて導線の表面に析出した物質。
歯先を回した。精密ドライバーを歯車の中心に差し込んで、トルクをかけて。がりがりという感触が指に伝わった。堆積物が削れていく。溝が開いていく。
「一番目の損傷箇所、導線の表面を清掃中。腐食した緑青を除去します。溝の深さは——三ミリくらい。新しい銅線を通すには十分」
声に出す。イレーネのために。記録のために。
ザインが壁面の隣に立っていた。アカリの作業を見ている。見ている——というより、聞いている。暗闇の中では音が情報になる。歯車が導線を削る音。堆積物が剥がれて落ちる音。金属の表面が露出したときの音色の変化。
「接地点の移設に入る前に確認する」
ザインの声。理論家の声。
「マナの設計では、接地点から本線への合流角度が七十度だ。七十度で合流すると、流れの一部が逆流する。ダンパーで抑えるとしても、合流角度そのものを変えた方がいい。お前ならどう配線する」
アカリの手が止まった。
合流角度。七十度。逆流。
お父さんの配電盤。家庭用の分電盤。メインブレーカーから各部屋への分岐。分岐角度がきつすぎると、電流の一部が分岐点で跳ね返る。反射波。高周波ノイズの原因になる。
お父さんは分岐角度を四十五度以下にしていた。「四十五度より緩ければ、電流はスムーズに流れる。急な角度で曲げるな。水と同じだ。急カーブじゃ跳ねる」。
「四十五度」
アカリが言った。
「合流角度を四十五度に変える。七十度だと逆流する。四十五度なら一方通行になる。お父さんの配電盤と同じ」
「根拠を理論で裏付ける」
ザインが数秒黙った。頭の中で計算している。暗闇の中で、ザインの呼吸だけが聞こえる。規則的な呼吸。計算しているときのザインの呼吸は、いつもより遅くなる。
「——四十五度で合致する。流量の反射係数がゼロに近づく。マナの七十度では反射係数が〇・三七。つまり三十七パーセントが逆流していた。四十五度なら〇・〇四以下に抑えられる」
三十七パーセント。
本線の流量の三十七パーセントが逆流していた。千年間。
「それって——」
「千年間、回路は三十七パーセントの効率損失を抱えていた。流量の三分の一以上が合流点で跳ね返って、行き場を失って、回路の中を彷徨っていた。その行き場を失ったエネルギーが——」
「50Hz」
アカリが言った。
50Hzの唸り。
魔王城に入ったときから聞こえていた音。壁面の中から。足元から。天井から。低い、深い、城全体を震わせる唸り。お父さんの作業場の配電盤で聞いたのと同じ周波数。接地不良のサイン。
ずっと聞こえていた。
スマホが生きていた頃も聞こえていた。バッテリーが5%のときも聞こえていた。1%でも。0%でも。スマホが死んでからも——ずっと鳴っていた。
デジタルの道具は全部死んだ。しかしアカリの耳は——ずっとこの音を聞いていた。
「50Hzの唸りの正体。行き場を失った逆流エネルギーが回路の中を循環して、導線を振動させてる。接地不良じゃなくて——合流角度の設計ミス。マナの設計では七十度だった。七十度では逆流が多すぎた。その逆流が千年間蓄積されて、回路全体を振動させてた」
ザインが静かに言った。
「マナは理論家だった。配線を知らなかった。七十度という角度は理論上の最短距離だ。最短距離で合流させれば材料が節約できる。しかし——」
「流体力学を知らなかった」
「そうだ。魔力の流れは直線ではない。流体に近い。急な角度で合流させれば跳ねる。マナにはそれがわからなかった」
ザインが——一瞬、黙った。いつもの計算の沈黙ではなかった。別の種類の沈黙だった。
「……私はマナの数式を読んだことがある。十五年前。教団の文献庫で。あの数式の意味は——理解していた」
声が低くなっていた。
「理解していて——何もしなかった。私には実装する手がなかった。声を上げる立場もなかった。そう言い聞かせた」
マナは三十年前、地下室で一人で数式を書いていた。回路図を描いていた。しかし実際に配線を組んだことはなかった。理論家の設計図は美しかった。しかし四十五度と七十度の差を——指で知ることはできなかった。
アカリの指は知っている。お父さんの配電盤で覚えた。四十五度の分岐は滑らかに流れる。七十度は跳ねる。理論ではなく、手が覚えている感覚。
「こう」
アカリの指が壁面の導線の上を滑った。
「ここ。接地点を三センチ移して、合流角度を七十度から四十五度に変える。ダンパーの位置も二センチずらす。こうすれば——電流は一方通行になる」
「お前の感覚を、私が理論で裏付けた。これで間違いない」
ザインの声が——少しだけ、変わっていた。冷たい理論家の声ではなかった。確信の声だった。
二人の間に——何かが生まれた。
信頼と呼ぶには理論家が嫌がるだろう。共感と呼ぶには実装者が照れるだろう。しかし——三十年前にマナが一人で立っていた場所に二人で立って、マナの設計ミスを見つけて、それを直す方法を二人で導いた。理論家が数式を出し、実装者が配線に変換した。マナの夢の、三十年越しの実現。
「……設計完了」
アカリが呟いた。
壁面の導線の上に、指の跡が残っている。ティックの燐光に照らされて、油脂の薄い線が光っている。見えない設計図。しかしアカリの頭の中には、完全な回路図がある。
接地点の移設。合流角度の変更。ダンパーの配置。八箇所の損傷迂回。全てが一枚の設計図に収まっている。
あとは——実装する。
壁面に手を当てたまま、アカリは目を閉じた。
50Hzの唸りが指先から伝わってくる。千年間鳴り続けてきた音。マナの設計ミスが生んだ音。サキが聞いた音。ユウが聞いた音。三十人以上の聖女が聞いた音。
その唸りの奥から——声が聞こえた。
50Hzよりも低い音。壁面の向こうから。回路の中枢の深部から。
声。
一つではない。何十、何百という声が重なっている。低い声。高い声。男の声。女の声。子供の声。老人の声。千年分の声が、回路の中に閉じ込められている。
——痛い。
——助けて。
——終わらせて。
痛みの声だった。千年分の痛みが回路の中に蓄積されて、声になっている。封印が不完全だから。逆流するエネルギーが痛みを循環させているから。千年間、同じ痛みが回路の中を回り続けている。終わらない。出口がない。
アカリの指先が——震えた。
痛みが指先から伝わってきたのではない。声を聞いて、体が震えた。千年分の「痛い」が、耳から入って、胸に落ちて、指先まで伝わった。
目を開けた。暗闇の中で。
壁面に手を当てたまま。
「……聞こえてるよ」
壁に向かって言った。回路の奥に向かって。千年分の声に向かって。
「全部聞こえてる。痛いのも。助けてっていうのも。終わらせてっていうのも。全部」
声が——震えていた。アカリの声が。しかし止まらなかった。
「直すから。今から直すから。逆流を止めて、痛みが回り続けないようにするから。少し——待ってて」
壁面の向こうから、返事はなかった。
しかし50Hzの唸りが——ほんの少しだけ、小さくなった気がした。
気のせいかもしれない。
でもアカリは壁面に額を当てた。冷たい石の壁。導線の微かな振動。千年分の鼓動。
「聞こえてるよ」
もう一度、言った。
自分に言い聞かせるように。千年分の声に応えるように。
壁から額を離した。
メガネが曇っていた。息で。拭いた。涙ではなかった。今回は——泣かなかった。泣く代わりに手を動かす。
「ザインさん。工事に入ります」
「……ああ」
歯車プローブを握り直した。
壁面の導線に歯先を当てた。最初の一削り。新しい溝を掘る。接地点を三センチ移すための、最初の一削り。
がり。
金属を削る音が、暗闇に響いた。




