第75話「手が覚えている」
壁面に手を当てた。
最初の導線。台座の右側面。床から百二十センチの高さ。アカリの胸の位置。
ユウの写真の一番目の損傷箇所。
写真はもう見られない。スマホは死んでいる。しかし——手を当てた瞬間、指先が覚えていた。
冷たい。
他の導線は温かかった。魔力が流れて、微かに発熱している。しかしこの導線は——冷たい。温度が落ちている。電流が流れていない。
指の腹で表面をなぞった。ざらざらしている。滑らかな金属の感触ではない。粒状の異物が表面を覆っている。
緑青。銅の酸化物。
中継ノードで見たのと同じだった。あのとき、スマホのフラッシュで照らして、カメラで拡大して、画面で確認した。今は——指だけ。しかし指が、あのときの感触を覚えている。ざらざらの粒度。酸化の進行度。導線の断面がどれくらい細くなっているか。
「一番目。腐食。中継ノードと同等かそれ以上。導線は切れてないけど、断面が半分くらいまで減ってる」
声に出した。記録のために。イレーネが暗闇の中で手帳に書いている——はずだ。
手を移動した。台座の背面へ。百八十センチの高さ。アカリの頭上。
つま先立ちになった。指先を伸ばした。届いた。壁面の接合部に触れた。
ここは——割れている。
接合金属が経年劣化で割れている。指先に亀裂を感じる。中継ノードの修理でハンダの割れを触ったのと同じ感触。しかし規模が違う。亀裂が深い。導線と導線の接合面が、大きく開いている。
「二番目。接合部の剥離。亀裂が大きい。ここは——埋め直す必要がある」
三番目。四番目。五番目。
壁面を移動しながら、手が損傷箇所を見つけていく。頭で覚えている位置情報と、指先が感じる温度と振動が、一致する。ユウの写真のデータ。指で触った記憶。二つの記憶が重なって、暗闇の中で損傷の地図を作っている。
六番目。七番目。
「七番目。導線の交差点。ここ——交差角度が写真で見たより浅い。実際に触ると、五度くらいずれてる」
ザインの声が壁際から飛んだ。「五度のずれは許容範囲か」
「許容範囲外。五度ずれるとショートのリスクが上がる。バイパスの経路をここで三ミリ外にずらす必要がある」
「三ミリか。計算し直す」
ザインが暗闇の中で数値を呟き始めた。
八番目。天井付近。台座から三メートル上方。
届かない。
壁面を見上げた。暗闇の中で、壁面の自発光がかすかに青い筋を描いている。三メートル上。脚立がない。
「レオン」
「何だ」
「肩を貸して」
沈黙。二秒。
レオンがアカリの隣に来た。片膝をついた。肩を差し出した。アカリがレオンの肩に足をかけた。レオンが立ち上がった。アカリの体が持ち上がった。
レオンの肩は硬かった。鎧は着ていないが、筋肉が鎧のように硬い。安定している。微動だにしない。
手が壁面の高所に届いた。三メートル。八番目の損傷箇所。
導線の交差点。交差角度が——確かに浅い。ショートの兆候がある。指先に微細なスパーク感。静電気に似た刺激。魔力が交差点でリークしている。
「八番目、確認。スパーク感あり。リークしてる。ここもバイパスで迂回する」
レオンの肩の上から降りた。
八箇所。全部確認した。
◇
壁面の前に座った。バックパックを下ろした。
中身を出した。暗闇の中で、手触りだけで確認していく。
工具ポーチ。精密ドライバー。ニッパー。銅線リール——中継ノードで大量に使った。残りは三メートルくらい。足りるかどうかわからない。テスター。電池が死んでいるかもしれない。ハンダごて——コンセントがない。使えない。
アルミホイル。弁当を包んでいた残り。前回のバイパスでも導電体として使った。残りは——手で広げた。三十センチ四方くらい。
そして——ステッキ。
魔法少女のステッキ。歯車エンブレム。スピーカー。死んだLED。中継ノードでアルミパイプの一部を切り取った。残りの本体。プラスチックと金属のハイブリッド。
ステッキを手に取った。暗闇の中で。
異世界に来た日からずっと持っていた。影狼を散らしたストロボの代わり。変身シーケンスの小道具。ロードアウトの声を鳴らすスピーカー。ベルの衣装の一部。
指が歯車エンブレムに触れた。金属製。真鍮。直径四センチ。歯が十二個。
この歯車を——外す。
精密ドライバーでネジを回した。暗闇の中で。手触りだけで。ネジの頭の十字溝にドライバーの先端を合わせて、回す。三回転。ネジが外れた。指先に落ちた。
歯車エンブレムが手のひらに乗った。
真鍮の歯車。歯が十二個。先端が尖っている。
——プローブになる。
導線の溝に歯の先端を差し込めば、接合金属の割れ目を掻き出す道具になる。銅線の被覆を剥く刃にもなる。歯車の中心にドライバーを差し込めば、トルクをかけて回転させられる。溝を掘る小型ドリルの代わりになる。
ステッキの本体からスピーカーユニットを外した。ネジ二本。外した。スピーカーの裏に小さなマグネットがある。永久磁石。直径八ミリ。
マグネットを外した。
このマグネットで——金属の屑を集められる。溝を掘ったときに出る切削片を磁石で回収する。散らばった金属片が回路に触れてショートするのを防ぐ。
LED基板も外した。八個のLEDチップが死んでいる。しかし基板のパターン——銅箔の配線——は生きている。この基板を切り刻めば、微細な銅箔片が取れる。接合部の補修材として使える。
ステッキが解体されていく。
歯車がプローブになった。スピーカーのマグネットが金属回収器になった。LED基板の銅箔が接合材になった。アルミパイプの残りが導体になった。プラスチックの本体は——握り手。ドライバーやニッパーの延長ハンドルとして使う。
コスプレの小道具が——工具に変わっていく。
レオンが見ていた。暗闇の中で。アカリの手がステッキを解体していくのを。
「それはもはや——お前の故郷の聖衣ではないな」
聖衣。レオンはコスプレ衣装をそう呼ぶ。ベルの変身衣装。聖女の儀礼服。
「うん」
アカリは歯車プローブを指で弾いた。きん、と高い音がした。真鍮の音。暗闇に響いた。
「ベルの衣装じゃない」
歯車を握った。
「私の装備」
ティックの翅が、微かに光った。アカリの手元を照らした。光の粉が手のひらの上に落ちて、歯車プローブの歯先を金色に染めた。
暗闇の中で。
解体されたステッキ。分解されたLED基板。外されたスピーカー。抜き取られたマグネット。
全部がアカリの手の中にある。もうベルの形をしていない。コスプレ衣装の部品ではない。工具。道具。修理のための装備。
アカリは壁面に向き直った。
右手に歯車プローブ。左手にニッパー。ポケットに銅線。膝の上にアルミホイル。
「武器じゃないよ」
誰に向けた言葉かわからなかった。レオンに。ザインに。自分に。あるいは——ベルに。
「道具」
壁面の導線に、歯車プローブの歯先を当てた。
作業が——始まった。




