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第74話「素の私のまま」

 バルトロメイの足音が消えた。


 螺旋通路の闇の中に。50Hzの唸りに紛れて。もう聞こえない。


 円形の部屋に、五人と一匹が残った。


 アカリ。レオン。ザイン。イレーネ。ティック。


 暗闇の中で、壁面の回路の自発光だけが青く脈打っている。台座が中央にある。千年分の焦げ跡が積み重なった台座。何十人もの聖女が立って、泣いて、光になった台座。


 アカリはその台座を見ていた。メガネ越しに。涙の跡が乾いたレンズ越しに。


 台座には立たない。


 台座の上で光になるのは——もう誰もやらない。バイパスを組む。接地点を三センチ移す。ダンパーを二つ設置する。損傷箇所を迂回する経路を開く。聖女を燃やさなくても封印が維持できる回路を——作る。


 「行こう」


 声が出た。自分の声。


 「ストレージの中枢に。壁面の回路に、直接バイパスを組む」


 ザインが頷いた。暗闇の中で、白い外套が微かに揺れた。


 イレーネが——手帳を開いた。


 暗闇の中で。壁面の自発光だけでは文字は見えないはずなのに。開いた。ペンを取り出した。


 「記録する」


 イレーネの声は平坦だった。いつもの報告書の声。


 「偽聖女アカリの行動記録。魔王城中枢において、バイパス回路の実装作業を開始。立ち会い監視者として記録を継続する」


 アカリはイレーネを見た。暗闇の中で、修道服の輪郭だけが見える。手帳を開いて、見えないはずのページにペンを走らせている。


 「……イレーネさん」


 「何」


 「見えないでしょ。暗くて」


 「見える」


 短い答え。嘘だ。壁面の自発光では手帳の罫線すら判別できないはず。しかしイレーネのペンは動いている。文字を書いているのか、それとも——ただペンを紙の上で動かしているだけなのか。


 どちらでもよかった。


 イレーネは記録する。それがイレーネの仕事であり、イレーネの存在理由であり、イレーネがここにいる理由だ。大聖堂でグレゴリウスの前に立って報告書を読み上げた人。「事実」を命がけで守った人。


 さっきレオンの剣の前で「イレーネの目がある」と言ったのは、イレーネの観察眼が必要だという意味だった。しかし今のイレーネは、観察者としてだけでなく、記録者としてここにいる。アカリが何をしたのか。何を直したのか。何が起きたのか。全部を記録する。暗闇の中でも。文字が見えなくても。


 「……ありがとう」


 イレーネは答えなかった。ペンの音だけが返った。


 レオンが立ち上がった。


 片膝をついていた姿勢から。石の床に突き立った剣の隣で。


 剣を見下ろした。


 石の隙間に食い込んだ刃。真上を向いた柄。介錯の剣。処刑騎士の剣。人を殺すための剣。


 手を伸ばした。柄に。


 指が——震えた。呪いの残響がまだ体にある。柄に触れた瞬間、血の中で声が蠢いた。殺せ。小さい。さっきよりずっと小さい。しかし——消えてはいない。


 レオンは剣を引き抜いた。石から。


 鞘に収めた。


 殺すために抜くのではない。持っていくために抜いた。剣は道具だ。暗闇の中で、通路を塞ぐ瓦礫を砕く道具になるかもしれない。壁面の導線を加工する道具になるかもしれない。


 師匠が言った。「剣はもう抜くな」。


 人には、抜かない。


 レオンがアカリの方を見た。


 暗闇の中で。壁面の青い光に照らされた、メガネの少女を。


 「メガネは——外さないのか」


 アカリは首を振った。


 「外さない」


 「変身は——」


 「しない。ロードアウトも叫ばない。LEDもつかない。ステッキも光らない。衣装は汚れてて、破れてて、装甲パーツは半分なくなってて。もう変身なんかできない」


 レオンの灰色の目が、アカリのメガネのレンズを見ていた。


 「今日は——素の私のまま行く」


 素の私。


 メガネをかけた十七歳。工業高校の電子科。身長百五十五センチ。お父さんは町の電気屋さん。推しはアイアン・ベル。スマホは死んでる。道具は全部壊れてる。ベルの台詞は喉を通らない。


 でも——頭の中にマナの回路図がある。サキの理論がある。ユウの損傷箇所が入ってる。指で回路を読める。耳で音を聞ける。


 それだけ。


 それだけで——行く。


 ティックが肩の上で翅を動かした。まだ弱い。全力発光の後遺症が残っている。しかし翅は動いている。微かな燐光がアカリの首筋を照らしている。


 「ティック。光の粉、少しだけ出せる?」


 「……少しだけなら」


 「少しだけでいい。作業するとき、手元だけ照らして」


 「うん」


 短い返事。語尾が伸びない。でも——「うん」と言った。


 アカリは台座の方に歩き始めた。


 台座の上には立たない。台座の横を通って。壁面に向かう。回路が刻まれた壁面。千年前の設計者が刻んだ、封印の回路。その回路に——バイパスを組む。


 壁面に手を当てた。


 温かい導線。冷たい石。振動する接地点。50Hzの唸り。全部、指で感じられる。


 「ザインさん。始めましょう」


 「……ああ」


 ザインが隣に立った。暗闇の中で。二人が壁面の前に並んだ。理論家と実装者。三十年前にマナが一人で立っていた場所に、二人で立っている。


 レオンが後ろに立った。剣を鞘に収めたまま。アカリの背中を守る位置に。


 イレーネが少し離れた場所で手帳を開いている。見えない文字を書いている。


 ティックが肩の上で翅を動かしている。


 暗闇の中。


 全員の位置が決まった。


 アカリの指が壁面の導線をなぞり始めた。最初の接合部。ここから——削る。溝を掘る。新しい経路を開く。


 指先が導線の温度を読んでいる。振動を読んでいる。目を閉じた。暗闇の中では目を開けていても閉じていても同じだ。しかし目を閉じた方が——指先の感覚が鋭くなる。


 お父さん。


 始めるよ。


 壁面の奥から、50Hzの唸りが答えた。低く、深く、千年分の振動で。


 そして——もっと奥から。壁面のさらに向こうから。回路の中枢のさらに深部から。


 何かが——脈打っていた。


 重い振動。50Hzよりも低い。もっとゆっくりとした脈動。心臓の鼓動に似ている。しかし人間の心臓ではない。もっと大きい。もっと古い。


 千年分の痛みが——凝縮した、核。


 封印の中枢。千年分の声が閉じ込められた場所。聖女の犠牲で押さえ込まれてきた、痛みの総体。


 それが——脈打っている。


 アカリの指先に伝わってきた。壁面の導線を通して。回路を通して。千年分の鼓動が。


 目を開けた。


 暗闇の中で。メガネ越しに。


 「……聞こえる」


 呟いた。


 「千年分の鼓動が——聞こえる」


 素の私のまま。メガネをかけたまま。道具なしで。


 ここから——直す。

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