第73話「20年前、儂はサキを護れなんだ」
回路図が完成した。
石の床に浮かぶ、見えない設計図。アカリの頭の中にある。ザインの頭の中にある。ティックの目だけが見える光の線。
あとは——実装する。
壁面の回路に、バイパスを組む。接地点を三センチ移す。ダンパーを二つ設置する。損傷箇所を迂回する新しい経路を開く。
時間がかかる。
ザインが計算した。「最短で半日。導線の加工を含めれば一日近くかかる可能性がある」
半日から一日。その間——無防備。
グレゴリウスは「教団は止めぬ」と言った。しかし「次の聖女召喚の準備に入る」とも言った。教団が動く。召喚の準備が始まる。もしバイパスが完成する前に教団が動けば——アカリは召喚の台座に連れ戻される。
あるいは——暴走。
回路に手を触れた瞬間、暴走が起きるかもしれない。グレゴリウスが警告した通り。中継ノードでバイパスが焼けたのと同じことが、中枢で起きたら——規模が桁違いになる。サキの暴走で数十人が死んだ。中枢の暴走なら——。
考えたくなかった。しかし考えなければならなかった。
「時間が必要だ」
ザインが静かに言った。
「作業中、外部からの妨害を防ぐ必要がある。教団が追手を出すかどうかはわからない。しかしグレゴリウスは次の召喚の準備を始めると言った。準備の一環として聖女を確保しに来る可能性は——ある」
暗闇の中で、全員が黙った。
「——儂が残る」
バルトロメイの声が落ちてきた。
低い声。深い声。地面から響くような声。二十年前の聖騎士団長の声。
「中枢への通路は一本しかない。螺旋の通路。あそこを塞げば、外からは入れん。儂が殿を務める」
レオンが顔を上げた。石の床に片膝をついたまま。剣が隣に突き立ったまま。
「師匠。一人では——」
「一人で十分だ」
バルトロメイの声が——硬かった。議論を許さない声。聖騎士団長が命令を下すときの声。レオンが訓練生の頃に何百回と聞いた声。
「あの通路は幅八十センチ。天井も低い。一人立てば塞げる。儂の体格なら——壁になれる」
大きな体。アカリが初めて会ったとき、老いた巡礼者だと思った体。しかしあの体は——二十年前に鎧を着て聖女を護るために鍛えられた体だった。
「師匠——」
「レオン」
バルトロメイの声が変わった。命令の声ではなくなった。もっと低い。もっと静かな声。
「二十年前、儂はサキを護れなんだ」
暗闇が——重くなった。
「儂は聖騎士団長だった。聖女を護る最高位の騎士だった。なのに——教団の決定に従った。サキがバグを見つけて、暴走が起きて、数十人が死んで。サキが泣いて、謝って。あの子は自分のせいだと思っていた。違う。あの子は正しかった。バグは本当にあった。暴走はサキのせいではなかった」
バルトロメイの声が——震えていた。
「しかし教団は——サキを封じた。暴走の責任を聖女に負わせて、予定通り封印の儀式を執り行った。儂は——止められなかった。聖騎士団長の権限で、止められたはずだった。しかし——数十人の死者を前に、声が出なかった。グレゴリウスの決定に従った。あの男の判断が間違っていると——言えなかった」
三十七人の名前の壁。大聖堂にあった壁。グレゴリウスが毎日数える壁。あの壁の名前の何人かは——サキの暴走で死んだ人々だ。グレゴリウスが保守的になった理由。バルトロメイが聖騎士団長を辞めた理由。二十年前の夜に、全部が決まった。
「サキが光になるのを——見ていた。台座の上で。泣いて、謝って、光になって、消えた。儂は——その横に立っていた。剣を握って。聖騎士団長として。何もせずに」
バルトロメイの大きな手が——胸元に動いた。
旅装束の内側から、何かを取り出した。
ガラケーだった。
サキのガラケー。二十年前のガラケー。動画を三本だけ残して、バッテリーが死んだガラケー。アカリのモバイルバッテリーを全部吸い取って、それでも三本目の動画の最後まで再生できなかったガラケー。
バルトロメイは——持っていた。あの日以降、ずっと。アカリに渡して、動画を再生して、バッテリーが死んで、返してもらって。それからまた——鎧の下に。肌身離さず。二十年と、さらに数週間。
大きな手の中で、ガラケーは小さかった。
電源ボタンを押した。何も起きない。画面は暗い。バッテリーは死んでいる。サキの声は戻らない。三本目の動画の「続き」は永遠に聞けないかもしれない。
しかしバルトロメイは——ガラケーを、胸に押し当てた。
両手で。大きな手で。小さなガラケーを、胸の真ん中に。心臓の上に。
「見ていてくれ、サキ」
声が——震えていなかった。
さっきまで震えていた声が。二十年分の後悔で震えていた声が——止まっていた。
「今度は——違う」
バルトロメイがアカリを見た。
暗闇の中で。壁面の自発光に照らされた老人の目。茶色い目。深い目。初めて会ったとき、アカリの中にサキの面影を探していた目。あのとき見つからなかったものが——今、見えている。
サキではなかった。アカリだった。サキとは違う少女。サキのようには泣かない少女。サキのように光にはならない少女。メガネをかけて、回路図を指で描いて、技術者の言葉で話す少女。
バルトロメイの目に——涙はなかった。代わりに——決意があった。
「アカリ」
「……はい」
「時間は儂が作る。お前は——直せ」
直せ。
お父さんが焼けた基板を見て言った言葉と同じだった。「もう一回やってみろ」。怒りもない。慰めもない。ただ——次がある、ということ。
バルトロメイが背を向けた。
ガラケーを胸の内側にしまった。旅装束の下に。心臓の上に。二十年前と同じ場所に。
螺旋通路の入口に向かって歩き始めた。大きな背中。広い肩。腰に剣はない——レオンのように専用の剣を持つ騎士ではなく、バルトロメイは素手の兵士だった。盾と鎧の騎士。若い頃は攻城戦で車輪を回した。重い破城鎚を動かすために、号令をかけて、全員の腕を揃えて、車輪を回した。今は鎧もない。旅装束だけ。
しかし——。
あの背中が、通路の入口に立った。
幅八十センチの通路。バルトロメイの肩幅で——ほぼ塞がった。
壁だった。
人の壁。
「レオン」
背を向けたまま。
「お前は残れ。あの子の隣に立て。剣は——もう抜くな」
「……はい、師匠」
レオンの声が——静かだった。
バルトロメイの背中が——暗闇の中に消えた。螺旋通路の闇に。50Hzの唸りの中に。
老いた背中だった。
しかし——揺るぎなかった。




