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第72話「指で描く回路図」

 アカリはレオンの前を通り過ぎた。


 石の床に突き立った剣の横を。片膝をついたレオンの横を。通り過ぎて——壁際のザインに向かった。


 ザインは壁にもたれて腕を組んでいた。暗闇の中で、白い外套だけが壁面の自発光を受けて、ぼんやりと浮かんでいる。


 「ザインさん」


 「……何だ」


 「始めます」


 短い沈黙。ザインの腕が解かれた。壁から背中が離れた。


 「何が必要だ」


 「あなたの頭」


 もう一瞬の沈黙。それから——ザインの唇が、暗闇の中で微かに動いた。笑ったのかもしれない。暗くて見えなかった。


 「使え」


 アカリはティックを右肩に移した。左腕から肩へ。ティックはまだ気を失っている。しかし呼吸はしている。小さな胸が微かに上下している。肩に乗せれば両手が使える。


 石の床に膝をついた。


 右手の人差し指を、床に当てた。


 「マナの回路図の接地点の矛盾。ザインさんが中継ノードで見つけた。覚えてますか」


 「当然だ。導線が七十度で折れ曲がる箇所。設計図上は直線で近似されている。実際の配線では三センチのずれが生じる」


 「その三センチ。修正案は接地点を三センチ下流に移す。中継ノードでは右壁面の中央やや下でした。ここ——中枢では、さっき指で触りました。同じ構造。七十度の折れ曲がり。振動が他の場所より強い場所」


 「あそこか」


 「はい。あそこの三センチ下に、新しい接地点を作る。そこから逆流を防ぐバイパス回路を引く。ここまでは中継ノードと同じ設計です」


 指が床の上を滑った。石の表面に何も残らない。インクもない。チョークもない。しかしアカリの指は——回路図を描いていた。見えない線を。頭の中にある回路図を、空中に描くように、石の床の上になぞっていた。


 「問題はここからです。中継ノードでは支線のバイパスだけで済んだ。中枢は本線です。本線のバイパスは支線の何倍も複雑になる。導線の太さも密度も桁違い。単純に三センチずらすだけじゃ——本線の流量に耐えられない」


 「わかっている」


 ザインが隣に膝をついた。暗闇の中で、二人が石の床の前に並んで膝をついている。


 「サキの定常リーク理論。あなたの魔法理論で未完成部分を補えるって、以前言ってましたよね」


 「言った。サキの理論は定常状態のリーク量を予測するものだ。しかし過渡応答——回路を切り替えた瞬間の非定常な振る舞いを記述していない。その部分を私の理論で補える」


 「その過渡応答の間、回路に逆流が起きないようにするには?」


 「ダンパーが必要だ。逆流を吸収する緩衝帯。バイパスの入口と出口に、それぞれ一つずつ」


 「ダンパーの設計は?」


 「導線を渦巻き状に巻く。電気の世界で言えば——」


 「インダクタ」


 アカリが先に言った。


 ザインが止まった。


 「……そうだ。コイルだ。お前の世界の言葉ではインダクタと言うのか」


 「はい。巻き数と直径で特性が変わります。逆流を抑えるなら——巻き数は多いほうがいい。でも多すぎると本線の流量も絞ってしまう。バランスが必要です」


 「巻き数の最適値は計算できる。しかし計算機がない」


 「計算機はザインさんです」


 またほんの一瞬の間。


 「……私を計算機扱いするのは、お前で二人目だ」


 二人目。一人目は——マナだろう。三十年前の理論家。マナには関数電卓があったが、電卓で足りない部分はザインの理論で補っていたのかもしれない。しかしマナとザインは直接会っていない。マナの数式がザインの理論と同じ結論に辿り着いていた——という意味か。


 どちらでもよかった。今は計算が必要だった。


 「本線の流量係数をマナの回路図から推定します。中継ノードで計った支線の流量が48Hz。本線は50Hz。ザインさんの理論だと、本線と支線の流量比は?」


 「三対一から四対一の間だ。正確には——」


 ザインが数値を口にした。アカリには理論の導出過程は追えない。しかし数値は聞ける。数値を聞いて、回路設計に落とし込むことはできる。


 「その比率なら——ダンパーの巻き数は七回。直径は導線の太さの三倍。入口側と出口側で同じ」


 「根拠は」


 「お父さんの配電盤。家庭用の分電盤で逆流防止コイルを巻くとき、本線の太さの三倍の直径で七回巻きが標準です。流量比が三対一から四対一なら、ほぼ同じ条件」


 ザインが黙った。三秒。


 「……お前の父親は、優れた技術者か」


 「町の電気屋さんです」


 「それは——答えになっていない」


 答えになっている、とアカリは思った。町の電気屋さん。それがお父さんの全部だ。


 指が床を滑り続けている。見えない回路図が広がっている。アカリの頭の中にだけ存在する回路図。接地点。バイパス。ダンパー。入口。出口。本線との接続点。


 「ユウの写真に写ってた損傷箇所。八箇所。場所は覚えてます」


 暗闇の中で、指が八つの点を床に打った。とん、とん、とん。


 「一番目。台座の左側面、床から百二十センチの高さ。導線の腐食。銅の酸化。断面が緑青で覆われてる」


 「二番目。台座の背面、百八十センチ。接合部の剥離。ハンダ——この世界ではなんと言うんですか、接合金属——が経年劣化で割れてる」


 「三番目——」


 一つずつ。八箇所。全部。


 スマホの写真はもう見られない。しかしアカリはスマホで撮影したとき、構図を決めるために回路を分析した。分析した情報が頭に残っている。さらに中継ノードで指で触った。温度の違い。振動の違い。手が覚えている。


 「——八番目。天井付近、台座から三メートル上方。導線の交差点。交差角度が浅すぎて、ショートのリスクがある」


 八箇所を全部言い終えた。


 指が床から離れた。


 暗闇の中に、見えない回路図が完成していた。石の床の上に。アカリとザインの頭の中に。


 「バイパスの経路は、この八箇所を全部避けて通す。損傷箇所に負荷をかけない。新しい経路で、損傷箇所を迂回する」


 「迂回の経路を計算する」


 ザインの声が——変わっていた。冷たい理論家の声ではなかった。もっと速い声。もっと密度の高い声。集中している声。数式が頭の中で走っている声。


 「——三通りある。最短経路。最安全経路。そして——」


 「最も効率の良い経路」


 「そうだ。最短は損傷箇所に近すぎる。最安全は回路が長くなりすぎて抵抗が増える。効率経路は——」


 ザインが数値を読み上げた。座標。角度。長さ。アカリの世界の単位ではない。しかしアカリの指が——ザインの数値を回路図に変換していく。理論を配線に翻訳していく。マナが三十年前にやろうとしたこと。理論家の数式を、実装者の手で回路にすること。


 マナには配線の手がなかった。


 アカリにはザインの理論がある。そしてアカリには——配線の手がある。


 「……できた」


 アカリの指が止まった。


 石の床の上の、見えない回路図。しかしアカリの頭の中には明確な設計図がある。接地点の修正。ダンパーの配置。バイパスの経路。損傷箇所の迂回。全部が一枚の図面に収まっている。


 「あとは——これを壁面に実装する」


 実装。手で。素手で。暗闇の中で。


 道具がいる。導線を削る刃物。溝を掘る工具。接合する金属。起動する電力。


 何一つない。


 「……道具が」


 声が小さくなりかけた。


 肩の上で——重さが動いた。


 ティックの翅が、微かに震えた。


 「……ん」


 小さな声。ティックの目が——開いた。半分だけ。まだ焦点が合っていない。全力発光の後遺症でぼんやりしている。


 しかし翅が——動き始めた。ゆっくりと。四枚の翅が、開いて、閉じて。


 燐光が灯った。


 微かな光。蛍よりも暗い。しかし——石の床が照らされた。


 アカリの指の跡が見えた。石の表面に、指の油脂が残している薄い線。目では見えないほどかすかな跡。しかしティックの燐光の角度で——反射して——微かに光っている。


 見えない回路図が——見えた。


 「……アカリちゃん」


 ティックの声がした。まだ弱い。まだ掠れている。


 「描いてたの?」


 「……うん」


 「見えるよ。ティックには見える。光の線——指の跡が光ってる」


 妖精の目には見えるのだ。人間の目には見えない、指先の油脂の薄い線が。光の粉を操る妖精の目には——光の跡が見える。


 ティックの翅が、もう少し強く光った。


 回路図が——石の床の上に浮かび上がった。

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