第71話「お前の声を」
暗闇の中で、誰も動かなかった。
アカリはティックを胸に抱いたまま蹲っている。レオンはバルトロメイに肩を掴まれたまま立っている。剣が九センチ抜けている。ザインが壁際にいる。イレーネが手帳を抱えている。
殺せ、と声が鳴っている。レオンの血の中で。
レオンの足が——また動いた。
一歩。バルトロメイの手を振り切るように。振り切ったのではない。呪いの力が、師匠の握力を超えた。バルトロメイの指が外套から滑った。
「レオン——!」
バルトロメイが叫んだ。もう一度掴もうとした。しかしレオンの体は止まらない。二歩目。三歩目。アカリまで四歩。
剣がさらに抜ける。十センチ。十二センチ。十五センチ。もう短剣の刃渡りを超えている。
アカリが見上げた。蹲ったまま。ティックを胸に抱いたまま。
レオンの顔が見えた。暗闇の中で。壁面の回路の自発光に照らされた、灰色の目。
苦痛の目だった。歯が食いしばられている。額の汗が光っている。全身の筋肉が——二つの方向に引き裂かれている。前に進もうとする呪いと、止まろうとする意志と。
三歩。
レオンの口が開いた。
声が漏れた。歯の隙間から。喉の奥から。呪いの声ではなかった。レオンの声だった。
「お前の……」
掠れていた。空気がほとんど残っていない肺から、最後の息を絞り出すような声。
「お前の……声を……」
二歩。
剣が十八センチ。鞘の半分近く。
「聞かせろ……!」
レオンが叫んだ。
叫んだ——のか。叫びというには弱すぎた。しかし呪いに全身を支配されながら、自分の声帯だけを取り戻して発した声は——叫びだった。音量ではなく、意志の重さで。
「ベルの言葉じゃなくていい……! お前の声を……!」
ベルの言葉。
レオンはそれを知っていた。アカリがベルの台詞を借りていることを。変身するたびに叫ぶ「ロードアウト」が、アニメの台詞であることを。焚き火の夜にオープニング曲を聴いた。ハミングで覚えた。アカリの世界の、アカリの推しの、借り物の言葉。
その借り物が——今、出ないことも。
レオンは知らないはずだ。暗闇の中でアカリがベルの台詞を口にしようとして声が出なかったことを。しかし——レオンは気づいていた。聖都を出てから、アカリがベルの台詞を一度も口にしていないことに。変身の名乗りがないことに。ロードアウトの声がないことに。
処刑騎士の耳は、聖女の声を聞く。それが任務だから。聖女の力が尽きたことを、声で判定する。アカリの声からベルが消えたことを——レオンの耳は、呪いの耳は、聞き取っていた。
だからこそ——呪いは発動した。
だからこそ——レオンは叫んでいる。
「お前の声を」。ベルの言葉じゃなくていい。お前の——アカリの——声を。
アカリの胸の中で、何かが弾けた。
弾けた——というほど劇的ではなかった。
静かに、何かが繋がった。
道具がない。スマホは死んだ。LEDは壊れた。クラッカーは撃った。ボタン電池は空。モバイルバッテリーは空。ステッキはプラスチックの棒。ハンダごてはコンセントがない。
全部ない。
でも——。
マナの回路図。あの地下室で見た壁一面の数式と回路図。数式は読めなかった。でも回路図は読めた。回路図は覚えている。導線の配置。分岐の角度。接合部のパターン。全部——頭の中にある。
サキの定常リーク理論。ガラケーの動画で泣きながら説明していた理論。ザインが補完した理論。接地点の三センチの矛盾。修正案。全部——頭の中にある。
ユウの写真。一眼レフで撮影された回路の損傷箇所。八箇所。場所は全部覚えている。スマホで照合した記憶。指で触った記憶。手が覚えている。
三人の聖女が三十年かけて蓄積したデータが——全部、アカリの頭と手の中にある。
スマホのストレージにはもうない。スマホは死んだ。しかしアカリのストレージ——記憶——には残っている。
道具が消えても。見てきたものの記憶は消えない。触ってきたものの記憶は消えない。
聞いてきた声の記憶も——消えない。
アカリの膝が動いた。
石の床から。膝が離れた。片膝。もう片膝。
立ち上がろうとしている。
ティックを左腕に抱いたまま。右手が石の床を押した。体を起こした。膝が伸びた。背筋が伸びた。
立った。
暗闇の中で。回路の自発光だけが照らす空間で。
メガネをかけたまま。
外さなかった。
変身するとき、いつもメガネを外していた。ベルの変身手順。ステップ0。冴えない女子高生がメガネを外す瞬間から別人になる。メガネを外すことが、アカリからベルへの切り替えスイッチだった。
今回は——外さない。
メガネをかけたまま。涙の跡が残ったレンズ越しに。汚れたメガネ越しに。素のアカリのまま。
レオンが——一歩手前で止まっていた。
剣が十八センチ抜けたまま。手が震えている。目がアカリを見ている。灰色の目。呪いと意志が戦っている目。
アカリの口が開いた。
「……レオン」
声が出た。
掠れていた。震えていた。ベルの声ではなかった。低い。弱い。かっこよくない。十七歳の女の子の、疲れ切った声。
でも——出た。
「剣を、下ろして」
レオンの目が見開かれた。
「私はまだ終わってない」
声が——少しだけ、強くなった。
「スマホは死んだ。LEDも壊れた。ベルの台詞も出ない。道具は全部なくなった」
一歩。アカリがレオンに向かって一歩踏み出した。ティックを左腕に抱いたまま。
「でも——私の頭は生きてる。マナの回路図を覚えてる。サキの理論が入ってる。ユウの写真の場所を覚えてる。指で回路を読める。耳で音を聞ける。ザインの理論がある。バルトロメイの手がある。イレーネの目がある」
もう一歩。
レオンの剣先が——アカリの胸の高さにある。十八センチの刃が。
「ベルの台詞は出ない。借り物の声は——もう出ない」
もう一歩。
剣先が——アカリの喉に近い。
「でも——私の声なら、出る」
レオンの目が——揺れた。
灰色の目の中で。呪いの声と。アカリの声と。殺せ、という声と。「私の声なら出る」という声と。
二つの声が——ぶつかっている。
レオンの手が震えた。激しく。剣が揺れた。刃が壁面の光を反射して、青い光の軌跡が暗闇に走った。
「……死ね、と——声が——聞こえる」
レオンの声が漏れた。
「死ね、殺せ、介錯しろ、と——俺の血が——」
声が途切れた。喉が痙攣している。呪いが声帯を奪おうとしている。レオンの声がレオンのものでなくなろうとしている。
しかし——。
「だが——俺は——」
レオンの右手が——震えながら——剣の柄を握り直した。
握り直した。呪いの握りではなかった。自分の握りだった。剣を前に突き出すための握りではなく。剣を振り下ろすための握りに——変えた。
前ではなく。
下に。
レオンの腕が——振り下ろされた。
剣が——石の床に突き立てられた。
がん。
金属が石を叩く音が、円形の部屋に反響した。石壁に跳ね返って、二度、三度と響いた。
剣が——床に刺さっていた。
刃が石の隙間に食い込んでいる。柄が真上を向いている。レオンの手は——柄から離れていた。
離れていた。
指が震えている。柄から離れた指が、空中で痙攣している。まだ握ろうとしている。呪いがまだ手を動かそうとしている。しかしレオンの意志が——手を柄から引き剥がしていた。
レオンの目がアカリを見た。
「お前の声を——聞く」
短い声だった。歯の隙間から漏れた声だった。呪いに半分支配された喉から出た声だった。
しかし——レオンの声だった。
介錯の剣が、石の床に突き立っている。
千年の歴史の中で——介錯の剣が、初めて人を殺さなかった。
剣を捨てたのではない。床に突き立てた。まだそこにある。しかし手から離れた。人に向けられた刃が、石に向けられた。
レオンの膝が崩れた。石の床に片膝をついた。剣の隣で。額から汗が流れている。全身が震えている。呪いの残響が体中を巡っている。
しかし——手は、柄に戻らなかった。
アカリはレオンの前に立っていた。メガネをかけたまま。ティックを左腕に抱いたまま。
暗闇の中で。
声が——出る。
借り物ではない。自分の声。掠れていて、低くて、かっこよくない声。
でも——出る。




