第70話「やめてよ」
六センチ。
レオンの剣が鞘から六センチ露出している。暗闇の中で、壁面の回路の自発光を受けて、刃が青白く光っている。
レオンの手が動いた。もう一センチ。七センチ。
バルトロメイが両手を広げてレオンとアカリの間に立っている。大きな体。壁のような体。しかしレオンの体も動いている。一歩。壁から離れて。バルトロメイの方に。アカリの方に。
「レオン! 堪えろ!」
バルトロメイの声が大聖堂の石壁に跳ね返った。いや、ここは大聖堂ではない。魔王城の中枢。しかし声の反響は同じだった。石の壁に囲まれた空間で、師匠の声が弟子に届こうとしている。
「堪えて……います……」
レオンの声が歯の隙間から漏れた。歯を食いしばっている。顎の筋肉が浮き上がっている。全身で抗っている。足を止めようとしている。手を止めようとしている。
しかし——もう一歩。
八歩。アカリまで八歩の距離。
剣がもう一センチ。八センチ。
アカリは蹲ったまま見ていた。動けない。声が出ない。レオンの灰色の目が見える。苦痛に歪んだ目。暗闇の中で、刃の光がレオンの顔を下から照らしている。
レオンの足がもう一歩。七歩。
バルトロメイがレオンの肩を掴んだ。大きな手が灰色の外套を握った。止めようとしている。しかしレオンの体は止まらない。呪いの力がバルトロメイの握力を押し返している。バルトロメイの靴が石の床の上を滑った。
「……師匠。離れてください」
「離れるか!」
「俺の手が——もう——」
剣が——九センチ。十センチ。鞘の口から刃が十センチ。長い。もう短剣の刃渡りに近い。
六歩。
五歩。
ティックが——肩の上で動いた。
翅が開いた。四枚。全開。燐光が強くなった。ティックの体から光が溢れている。光の粉ではない。翅そのものの発光。感情に反応する光。怒りに反応する光。
ティックが飛んだ。
アカリの肩から。レオンに向かって。暗闇の中を、小さな光の点が一直線に飛んだ。速かった。ティックがこんなに速く飛ぶのを見たことがない。
レオンの剣の先端——露出した刃の切っ先に。
止まった。
ティックが剣先に止まっていた。
小さな足が刃の上に立っている。四枚の翅が全開になっている。両腕を広げている。レオンの顔に向かって。大きな目が——見開かれている。
怒りの表情だった。
初めて見た。ティックの怒りの顔を。この妖精は笑うか、ふくれるか、泣くか、首を傾げるか——そのどれかだった。怒りの顔は——初めてだった。
小さな眉が寄っている。大きな目が吊り上がっている。唇が震えている。全身が——震えている。翅が震えている。光が震えている。
「やめてー!」
叫んだ。
ティックが叫んだ。
暗闇の中で。魔王城の中枢で。剣先の上で。小さな体の全部を使って。
「やめてー! やめてよー!」
語尾が伸びていた。いつものティックの語尾の「ー」。しかし——音が違った。いつもの享楽的な「ー」ではなかった。「なにー?」の「ー」ではなかった。「わかんないー」の「ー」ではなかった。
悲鳴の「ー」だった。
「この子は光にならないの! この子はいつもと違うの! やめてよー!」
レオンの剣が——止まった。
九センチのまま。十センチから一センチ戻って、九センチ。ティックの叫びが、呪いの進行を一瞬だけ止めた。
ティックの目から——光の粉が零れていた。
涙ではなかった。妖精に涙腺があるのかどうかわからない。しかし目の縁から、光の粉が溢れていた。金色の微細な粒子が、ティックの頬を伝って、剣の刃の上に落ちた。刃の表面で光の粒が散った。
「みんな——みんな光になって消えたの。マナも。サキも。ユウも。みんな。ティックはずっと見てた。ずっとずっと見てた。来て、泣いて、光になって、消えるの。何百年も。何百年も」
ティックの声が——変わっていた。享楽的な妖精の声ではなかった。何百年分の記憶を背負った声だった。
「ティックは何もできなかった。マナが光になるとき、何もできなかった。サキが光になるとき、何もできなかった。ユウが光になるとき、何もできなかった。光になる子のそばにいるだけ。光の中にいるだけ。何もできないまま——見てるだけ」
小さな体が震えている。剣先の上で。刃が頬に触れそうな位置で。
「でもこの子は光にならないの。泣いても光にならないの。暗い中にいるの。消えないの。初めて——消えない子がいるの」
ティックの翅が——大きく開いた。四枚。限界まで。燐光が最大になった。暗闇の中で、ティックの翅だけが——光っていた。
「だから——やめてよ」
語尾が伸びなかった。
「やめてよ」。「やめてよー」ではなかった。
街道で「やだ」と言ったときと同じ声。短くて。硬くて。ティックの全意志が込められた声。
レオンの目が——ティックを見ていた。
剣先の上に立つ、小さな妖精を。四枚の翅を広げた、掌に収まるほどの体を。目の縁から光の粉を零しながら、両腕を広げて、レオンの剣を止めようとしている——何百年生きた妖精を。
何百年もの間、聖女の死を「いつものこと」として見てきた妖精が——初めて「やめろ」と叫んでいる。
レオンの剣が——震えた。
呪いの震えとは違う震え。
「ティックは何もできないよ」
ティックの声が、小さくなった。
「翅は光るけど。光の粉は出るけど。でもそれだけ。剣は止められないよ。呪いも止められないよ。ティックにはなんにもできないよ」
小さな手が——剣の刃に触れた。
切れない。妖精の手は実体が薄い。金属の刃では切れない。しかし刃の冷たさは感じる。ティックの手が、冷たい刃の上に置かれた。
「でも——やだ。もうやだよ」
最後の言葉だった。
ティックの翅の光が——消えた。
燐光が消えた。四枚の翅が萎れるように畳まれた。全力の発光で、体力が尽きた。大聖堂前の十秒照射と同じ。限界を超えた発光の代償。
ティックが——剣先から滑り落ちた。
小さな体が。力を失って。刃の上から。
落ちていく。暗闇の中を。
アカリの手が——動いた。
動かなかったはずの手が。蹲ったまま動かなかったはずの体が。ティックが落ちる軌道に、手が伸びた。無意識に。考える前に。体が勝手に動いた。
受け止めた。
両手の中に、ティックの小さな体。温かい。軽い。翅が畳まれている。目が閉じている。光の粉が手のひらの上でかすかに残光を放っている。
「ティック——」
声が出た。
ティックの名前。ベルの台詞ではない。自分の声。掠れて、震えて、しかし——出た。
ティックは答えなかった。気を失っている。体力が尽きて。怒りの全力で。
アカリはティックを胸に抱いた。
死んだスマホを抱いていた場所に。冷たかったスマホの代わりに。温かい。生きている。呼吸している。小さな胸が、微かに上下している。
アカリの頬を照らす光は、もうなかった。ティックの翅の燐光も消えた。完全な暗闇。壁面の回路の自発光だけが、青く、遠く、微かに光っている。
暗闇の中で——レオンの剣が、まだ光っていた。
九センチ。鞘から露出した刃が、回路の自発光を受けて、青白く。
レオンの手が——震えている。
殺せ、と声が言っている。
しかしレオンの目は——ティックが落ちた場所を見ていた。アカリの手の中を。小さな妖精が眠っている手のひらを。
暗闹の中で、誰も動かなかった。




