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第68話「翅の光」

 翅の光が——動いた。


 部屋の反対側で止まっていた小さな光が、ゆっくりと動き始めた。壁面の導線の自発光に紛れるほど淡い、翅の燐光。


 遠ざかっていく——のではなかった。


 近づいてきた。


 一歩。二歩。三歩。石の床の上を、小さな足が歩いている。飛んでいない。翅を使っていない。歩いている。ティックが、地面を歩いてこちらに向かっている。


 アカリは蹲ったまま顔を上げた。メガネのレンズが涙で曇っている。拭いていない。拭く気力がなかった。曇った視界の中で、小さな光の点が近づいてくる。


 ティックが——アカリの膝の前で止まった。


 見上げていた。大きな目で。ティックの目は大きい。顔の半分くらいが目だ。その目が、涙で曇ったメガネの向こうから、アカリを見上げていた。


 何百年も光を追いかけてきた妖精の目が——暗闇の中で蹲っている、光らない少女を見ていた。


 「……ティックは、わかんない」


 小さな声だった。


 「光がないのに泣いてる。光にならないのにここにいる。ティックは何百年も聖女を見てきたけど——こういうの、初めて」


 語尾が伸びなかった。ティックの声は、聖都を出た街道で「やだ」と短く言ったあの日から変わっていた。


 「みんな、最後は光になった。光の中に消えた。ティックは——光の中にいるのが好きだった。あったかくて、きれいで。でも——」


 ティックの足が動いた。石の床を、とてとてと歩いた。アカリの膝を越えて。旅装束の布を掴んで。よじ登って。腕を越えて。胸を越えて。肩に——。


 肩に、止まった。


 いつもの場所。アカリの右肩。鎖骨のくぼみ。小さな足が布を踏んで、体重がかかる。軽い。いつも通り軽い。


 ティックの小さな手が、アカリの首筋に触れた。


 温かかった。


 「光がなくても——ここにいる」


 ティックが言った。


 「ティックも、わかんない。なんでここにいるのか。光がないのに。でも——」


 翅が動いた。四枚の翅がゆっくり開いた。閉じた。開いた。燐光が明滅した。アカリの頬を照らして。消えて。照らして。消えて。


 「この子は光にならないから。光にならないから——消えない」


 アカリの涙が、また流れた。


 しかし今度の涙は——さっきとは違った。さっきの涙は喪失だった。スマホを失い、ベルの台詞を失い、光を失った涙。今の涙は——何だろう。名前がつけられない。嬉しいのとも違う。悲しいのとも違う。ティックが戻ってきたことへの安堵でもない。


 ティックが「光がなくてもここにいる」と言った。何百年も光を追いかけてきた妖精が、初めて光以外の理由で誰かの肩に止まった。


 その重さが——軽いのに、重かった。


          ◇


 暗闇の中で、アカリは膝を抱えていた。ティックが肩に止まっている。翅が明滅している。それだけが光。


 他の全員は壁際にいた。距離を置いている。誰も近づかない。バイパスが焼けた夜の「誰も励まさない時間」と同じ構造。しかし今は——励まさないのではなく、アカリとティックの間に入ってはいけないと全員がわかっている。


 壁の回路が青く光っている。50Hzの唸りが鳴っている。千年分の声が壁の向こうで囁いている。


 アカリの頭の中で——思考が回っていた。止まらない。止められない。


 役に立てない。


 回路は読めた。指で。耳で。接地点もわかった。三センチの問題もわかった。しかし道具がない。ハンダごてがない。溝を掘る刃物がない。導線を繋ぐ素材がない。回路を読めても、直す手段がない。


 何もできない。


 推しの台詞すら言えない。暗闇でベルの言葉が喉を通らない。光がないからベルの文法が崩壊した。変身できない。名乗れない。ロードアウトと叫んでも何も起きない。


 私は——何者でもない。


 聖女じゃない。偽物だとイレーネが宣告した。技術者としてはバイパスを失敗した。コスプレイヤーとしては道具が全部壊れた。推しの台詞を言う声すら失った。


 何者でもない。


 十七歳の。メガネの。工業高校の。泣き虫の。何者でもない女の子。


 ティックの翅が頬を照らした。淡い燐光。金色の、微かな光。


 全ての技術が消えた暗闇の中で——生き物の光だけが残っていた。


 LEDの白い光ではなく。フラッシュの強い光ではなく。スマホの画面の四角い光ではなく。ステンドグラスの色とりどりの光でもなく。メタリックテープの乱反射でもなく。


 翅。


 生きている翅。光の粉を作れる翅。暗闹の中でも消えない翅。電池がいらない翅。充電がいらない翅。コンセントがいらない翅。


 生き物の光。


 ティックの翅の光だけが、アカリの頬を照らしていた。涙の跡を照らしていた。メガネのレンズを照らしていた。


 「……ティック」


 声が出た。掠れていた。しかし——出た。ベルの台詞ではなかった。自分の声だった。


 「ありがとう」


 大聖堂の前で十秒の全力照射をして倒れたティックに言ったのと同じ言葉だった。しかし今回は——光をくれたことへの感謝ではなかった。光がないのに戻ってきたことへの感謝だった。


 ティックは答えなかった。肩の上で、翅をゆっくり動かしていた。


 暗闇。


 暗闹の中に、何者でもない少女と、光以外の理由で初めてそばにいる妖精がいた。


 静かだった。


 50Hzの唸りと、千年分の声と、ティックの翅の微かな音だけが聞こえていた。


 ——かちゃり。


 音がした。


 金属の音。小さい。しかし暗闹の静寂の中では——はっきり聞こえた。


 かちゃり。


 鞘の中で——剣が動く音。


 アカリは顔を上げた。


 暗闹の向こう。壁際。壁面の回路の自発光に照らされた、人の影。


 レオンが——立っていた。


 壁にもたれて立っていた。しかし姿勢がおかしかった。肩が強張っている。背中が壁に押し付けられている。まるで——壁に自分を縛り付けているような姿勢。


 レオンの右手が——剣の柄にあった。


 握っていた。大聖堂で騎士を止めたときとは違う握り方。自分の意志で握っているのではない。手が——勝手に握っている。


 剣が——震えていた。


 鞘の中で。かちゃり。かちゃり。金属が金属を叩く音。小さい。しかし——規則的。脈拍のリズムで。心臓の鼓動と同じリズムで。


 レオンの顔が——歪んでいた。


 暗闹の中で。壁面の青い光に照らされた横顔が。歯を食いしばっている。額に汗が浮いている。灰色の目が——見開かれている。何かに抗っている目。何かと戦っている目。


 「レオン……?」


 アカリの声に、レオンは答えなかった。


 剣が——震えている。

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