第67話「口が動くが音にならない」
回路を読めることがわかった。
指で。耳で。目で。スマホがなくても、アナログの感覚でストレージの回路を読める。接地点の位置もわかった。三センチずらすべき場所もわかった。
しかし——。
「で、どうする」
ザインの声が暗闇の中から落ちてきた。
「回路は読めた。接地点は見つけた。だが実際にバイパスを組むには素材がいる。道具がいる。導線を削るための刃物。溝を掘るための工具。接合部を繋ぐための——」
ハンダ。
ハンダごてがいる。あるいはそれに代わるもの。金属を溶かして導線同士を接合する道具。ポーチに入っていたハンダごてはコンセントがなければ使えない。この世界にコンセントはない。
「……わかってます」
声が小さかった。
わかっている。回路が読めても、道具がなければ直せない。読めることと直せることの間には、まだ距離がある。
「今すぐは無理だ。まず休め。全員、限界に近い」
ザインが言った。珍しく——休めと言った。理論家が。止まらない男が。「まず休め」と言った。
円形の部屋の壁際に、全員が座った。石の床。冷たい。背中を壁につけた。導線の微かな振動が背中に伝わってくる。50Hzの唸り。ここではもう慣れた。BGMのように鳴り続けている。
ティックが肩の上で動いた。
いつもの動きではなかった。落ち着きがない。翅が開いたり閉じたりしている。小さな足がアカリの肩を踏んでいる。爪先が布を引っ掻いている。
「ティック?」
返事がなかった。
ティックが翅を広げた。肩から飛び立った。暗闹の中で、翅の燐光が弧を描いて移動した。アカリの肩から離れて——三歩先の石の床に降りた。
「ティック」
「…………」
返事がない。
暗闇の中で、ティックの翅の光だけが見えている。小さな光が石の床の上にある。アカリの肩の上ではなく。三歩離れた場所。
「……光、ないね」
ティックの声が聞こえた。小さい。いつもの語尾の伸びがない。
「LEDも。フラッシュも。画面も。全部、消えちゃった」
「……うん」
「ティックは、光が好きだった」
過去形だった。
好きだった。好きだ、ではなく。
「みんな光ってたよ。マナも。サキも。ユウも。光ってて、きれいで、ティックはそばにいた。みんな最後に——すっごく光って、消えた。光の中に消えた。きれいだった」
ティックの声が、平坦だった。いつもの声ではなかった。語尾が伸びない。抑揚が薄い。何百年分の記憶を、感情を殺して語っている。
「アカリちゃんは——もっと光ってた。LEDがきれいだった。フラッシュが明るかった。画面が白くて、いろんな色が出て、ティック見たことないくらい光ってた」
「…………」
「でも全部消えた」
ティックの翅が動いた。石の床の上で。光が揺れた。
「ティック——光がないところには、いられない」
心臓が冷えた。
「ティック……?」
「ごめんね。ティック、光がないとだめなの。ずっとそうだった。何百年もそうだった。光があるところに行く。光がなくなったら——次の光を探す」
次の光を探す。
次の聖女を探す。
マナの光が消えたとき、サキの光を見つけた。サキの光が消えたとき、ユウの光を見つけた。ユウの光が消えたとき——アカリの光を見つけた。
そしてアカリの光が消えたから——次の光を探す。
「待って——」
声が出た。掠れていた。
「待って、ティック。行かないで」
ティックの翅の光が——揺れた。
何か言わなきゃ。何か言えば——ティックは残ってくれるかもしれない。何か——。
ベルの台詞。
ベルが仲間を引き止めるとき、何て言ったっけ。アイアン・ベルの三十二話。「一人で抱え込まないで。ここにいるよ」。——違う。これはアカリが言う台詞じゃない。言われる側の台詞だ。
アイアン・ベルの十九話。「信じて。私を信じて。まだ——」。——まだ、何? 何ができる? 何を信じさせる? 光がもうない。LEDもフラッシュもスマホも全部死んだ。信じてと言って、何を見せられる?
アイアン・ベルの四十五話。「行かないで。お願い。一緒に——」。
アイアン・ベルの最終話。「リストア・コンプリート。もう、大丈夫だよ」。壊れた世界を修復し終えたベルが、最後に叫んだ台詞。——しかしあれは、全部を直し終えた後の言葉だ。今のアカリは何も直していない。何も終わっていない。
口が開いた。
「行か——」
音にならなかった。
口が動いた。唇が形を作った。「行かないで」の形。しかし声帯が震えなかった。喉から音が出なかった。
もう一度。
「一緒に——」
音にならない。
口が動いている。唇が開閉している。台詞の形をなぞっている。しかし声が——出ない。空気だけが漏れている。
ベルの台詞が——出ない。
何度口を動かしても。何度唇が形を作っても。三十二話の台詞も、十九話の台詞も、四十五話の台詞も——音にならない。
口が動くが音にならない。
なぜ。
なぜ出ない。
今まで出ていた。大聖堂で「ロードアウト」と叫べた。村の井戸の前でベルの台詞を借りられた。影狼の前で決め台詞を言えた。ずっと——借り物の言葉で生きてこられた。
なのに——今、出ない。
借り物の言葉が——喉を通らない。
光がないからだ。
ベルは光の中にいるキャラクターだ。変身すれば光る。LEDが光る。ステッキが光る。光の中でポーズを取って、光の中で台詞を言う。光がベルの文法だ。光がベルの世界だ。
光が消えた世界では——ベルの台詞は機能しない。
暗闇の中で「ロードアウト」と叫んでも、何も光らない。暗闇の中で「信じて」と言っても、何も見せられない。暗闘の中で「ここにいるよ」と言っても——ここがどこかも見えない。
ベルの言葉が通じない世界に——初めて来た。
膝が崩れた。
石の床に崩れ落ちた。蹲った。メガネのレンズに涙が溜まっている。拭く手が動かない。スマホを胸に抱いたまま。冷たいスマホ。死んだスマホ。
泣いていた。
声を出さずに泣いていた。台詞が出ないのだから、泣き声も出ない。涙だけが流れている。メガネのレンズを伝って、鼻の頭から落ちて、膝の上の手に落ちた。
ティックの翅の光が——遠ざかっていく。
三歩が四歩になった。四歩が五歩になった。石の床の上を、小さな光が移動している。アカリから離れていく。
来て、泣いて、光になった。
マナもそうだった。サキもそうだった。ユウもそうだった。来て、泣いて、最後に光になった。光になったから——ティックは最後までそばにいられた。光があったから。
でもアカリは光にならない。
泣いてる。泣いてるけど——光らない。暗闇の中で蹲って、冷たいスマホを抱いて、声も出せずに涙を流しているだけ。光にならない。
ティックにとって、アカリは——もう光じゃない。
翅の光が、さらに遠ざかった。六歩。七歩。円形の部屋の反対側に向かっている。
「…………」
声が出ない。台詞が出ない。自分の言葉も出ない。何も出ない。口が動くだけ。
暗闇の中で、涙だけが流れていた。
◇
ティックは部屋の反対側で止まった。
壁面の導線の自発光に照らされて、小さな体が青く光っていた。四枚の翅。細い腕。大きな目。
振り返った。
アカリが見えた。
暗闇の中で蹲っている。メガネが涙で光っている。膝を抱えて。死んだスマホを胸に抱えて。声が出なくて。光らなくて。
何百年と見てきた光景だった。
聖女が泣いている光景。マナも泣いた。サキも泣いた。ユウも泣いた。みんな泣いた。そして——光になった。泣き終わったら光が来て、光に包まれて、消えた。
アカリは泣いている。
でも光が来ない。
いつもはここで光が来る。台座が光って、回路が光って、聖女の体が光って。泣くのが終わりの合図で、光が始まりの合図だった。何百年も、そうだった。
光が来ない。
アカリは泣いたまま、暗闇の中にいる。
「……いつもと、ちがう」
ティックが呟いた。
いつもと違う。
この子は光にならない。泣いても光にならない。蹲っても光にならない。暗闇の中で、ただ——泣いている。
何百年の間、ティックは光を追いかけてきた。光があるから側にいた。光が消えたら次の光を探した。それがティックの生き方だった。
でも——。
この子は光にならない。
光にならないのに——泣いている。
光にならないのに——ここにいる。
ティックの翅が——止まった。




