第65話「リンゴマーク」
1%。
暗闇の中で、スマホを握っていた。画面はスリープしている。1%の節電。点ける必要はない。写真は撮った。録音はした。データは頭に入った。
点ける必要はない。
なのに——手が、画面を撫でていた。
暗い画面。何も映っていない。黒い長方形。ガラスの表面が滑らかで、指の腹に馴染む。毎日、何百回と触ってきた面。朝起きてまず触る面。夜寝る前に最後に触る面。
この世界に来てからも——ずっと触っていた。バッテリーの数字を確認するために。写真を撮るために。計算するために。録音するために。マナの数式を表示するために。ユウの写真を見るために。サキの動画を再生するために。
全部、この画面を通していた。
この画面が——世界との接点だった。
「……最後に、見ていい?」
誰に聞いているのかわからなかった。ザインに。レオンに。ティックに。自分に。
誰も答えなかった。
画面をタップした。
白い光が顔を照らした。1%。ロック画面。アイアン・ベルの壁紙。メガネをかけた変身前のベルが、いつも通りちょっと不安そうな目をして、でも笑っている。
自分に似ているから選んだ壁紙だった。
第一話から、ずっとこの壁紙だった。ホームに立ったとき。異世界の石の床で泣いたとき。影狼の光の中で。村の井戸の前で。サキの動画を見る前と後で。マナの地下室で。ユウの写真を開くたびに。バイパスが焼けた夜に。大聖堂のステンドグラスの下で。ずっと——この子が笑っていた。
画面の光が弱くなった。
1%の光。もう明るくない。白というよりグレー。画面のバックライトが最低輝度まで落ちている。節電モードの最後の段階。
ベルの顔が暗くなっていく。
壁紙の下に通知バーがある。「バッテリー残量が少なくなっています」。赤い文字。赤が——暗い画面の中で唯一はっきり見える色。
「……ベル」
壁紙に話しかけた。
声に出した。恥ずかしくなかった。暗闇だから。千年分の声が壁の向こうで囁いている場所だから。ここでは誰もが何かに話しかけている。グレゴリウスは壁に。ザインは数式に。レオンは剣に。
「ベル、私——最後まで全然かっこよくなかったよ」
壁紙のベルが笑っている。不安そうな目で。
「変身は壊れてたし。LEDは死んでるし。クラッカーはもう使っちゃったし。ロードアウトって叫んでも何も起きないし」
指が画面の上を滑った。ベルの顔をなぞった。ガラス越しに。
「でも——ベルがいたから、ここまで来れた。ベルの台詞を借りて。ベルの立ち方を真似して。ベルの変身を真似して。全部借り物で——全部偽物で——でも」
声が詰まった。
画面が——暗くなった。
スリープではなかった。
画面の光が消えた。バックライトが落ちた。壁紙のベルが消えた。不安そうな目が消えた。笑顔が消えた。
真っ黒な画面。
真っ黒な画面に——顔が映っていた。
ガラスの表面に反射した、顔。暗闘の中で、壁面の導線のかすかな自発光だけが照らしている顔。ティックの翅の燐光が頬に淡い金色を落としている顔。
メガネをかけた顔だった。
黒縁のメガネ。レンズが汚れている。何日も拭いていない。頬がこけている。唇が乾いている。目の下に隈がある。髪がぼさぼさだ。旅装束の襟元が汗で変色している。
十七歳の——女の子の顔。
ベルではない。変身後の銀髪碧眼の魔法少女ではない。変身前のベルですらない。ベルの変身前は「ちょっと不安そうな目をして、でも笑っている」。
画面に映っている顔は——笑っていなかった。不安そうですらなかった。疲れていた。消耗していた。火傷があった。隈があった。唇が割れていた。
これが——アカリだ。
ベルの壁紙の下に、ずっと隠れていた顔。スマホの光に照らされている限り見えなかった顔。光が消えた瞬間に、ガラスの奥から浮かび上がった顔。
「……これが、素の私だ」
声が、自分の耳に戻ってきた。暗闇の中で。50Hzの唸りの中で。千年分の声の中で。
素の自分。道具を全部剥がされた自分。LEDも、スピーカーも、クラッカーも、フラッシュも、カメラも、計算機も、全部なくなった後に残る——素の、十七歳の、メガネの、女の子。
黒い画面の顔が——泣きそうだった。
泣きそうなのはアカリだから、画面の顔も泣きそうなのは当然だ。しかしそれを自覚したとき——何か、決定的なものが崩れた。
ベルは泣かない。変身前のベルは不安そうな顔をするけど、泣かない。でもアカリは——泣く。ベルじゃないから。偽物だから。
涙が一滴、画面に落ちた。
黒いガラスの上で、涙の雫が光を反射した。ティックの翅の燐光を受けて、小さな光点になった。
その涙を——画面が受け止めた。最後の一滴を。0%の画面が。
暗い。
画面が真っ暗だった。
いつから0%になったのかわからなかった。1%の光が消えた瞬間を、アカリは見ていなかった。泣いていたから。涙でレンズが曇っていたから。
0%。
スマホが——死んだ。
◇
死んだ、と思った。
しかし——。
手の中で、微かな振動があった。
スマホが震えた。短く。ぶるっと。起動時の振動。電源を入れたときの、あの短い震え。
え。
画面が——光った。
真っ黒だった画面の中央に、光が生まれた。白い光。小さい。画面の中央に。リンゴの形。
リンゴマーク。
起動ロゴ。
iPhoneが再起動するときに表示される、白いリンゴのマーク。何百回と見てきたマーク。電源を入れるたびに見てきたマーク。
「——え?」
声が出た。
「え——嘘。嘘。起き——」
リンゴマークが画面の中央で光っている。白い光。暗闇の中で。手のひらを照らしている。顔を照らしている。涙の跡を照らしている。
起きるの?
まだ生きてるの?
0%って表示されたのに——まだ、残ってたの?
心臓が跳ねた。手が震えた。画面を両手で握った。リンゴマークを握りしめるように。消えないで。消えないで。お願い。あと少しだけ。あと一枚だけ写真を。あと一回だけ計算を。あと一秒だけ——。
一秒。
二秒。
画面が消えた。
リンゴマークが消えた。白い光が消えた。手のひらが暗くなった。顔が暗くなった。何も見えなくなった。
完全な暗闘。
スマホが——今度こそ、死んだ。
バッテリーの残滓。0%と表示された後にも、回路の中に微量の電荷が残っていることがある。起動シーケンスを開始するには足りるが、OSをロードするには足りない。リンゴマークを表示するまでは到達できるが、その先へは——進めない。
期待させて、奪った。
最も残酷な形で。
手の中のスマホは、もう何の反応もしなかった。サイドボタンを押した。何も起きない。ホームボタンを押した。何も起きない。画面をタップした。何も起きない。
冷たくなっていく。スマホの筐体が。動作していたときの微かな発熱が消えて、石の城の冷気に馴染んでいく。金属とガラスの塊が、ただの冷たい板になっていく。
「…………」
声が出なかった。
ティックが肩の上で動いた。小さな手がアカリの首筋に触れた。
「アカリちゃん」
「…………」
「光——消えちゃった?」
「……うん」
一語だけ。それだけで精一杯だった。
ティックは何も言わなかった。肩の上で、翅をゆっくり動かしていた。
暗闇の中に、六人と一匹が立っていた。
スマホの光はない。LEDの光はない。松明の火はない。ティックの翅の燐光だけが、かすかに、かすかに、暗闇の端を照らしている。
50Hzの唸りが鳴っている。
千年分の声が囁いている。
アカリは暗闇の中で、冷たくなったスマホを胸に抱いた。両手で。ベルの壁紙が消えた画面を。自分の顔が映った画面を。涙を受け止めた画面を。リンゴマークが二秒だけ光った画面を。
もう光らない画面を。
抱いて。
暗闇の中に、立っていた。




