第64話「千年分の声」
深部に向かって降りていた。
通路は緩やかな螺旋を描いて地下へ潜っている。壁面の導線が密度を増している。毛細血管が太くなっていく。末端から中枢に向かっている。
スマホの録音を起動した。5%。
「録音開始。魔王城ケルンシュメルツ内部。入口から推定百メートル。通路幅約八十センチ。天井高約百八十センチ。壁面導線の密度は中継ノードの約十倍。溝の幅は三ミリから五ミリ。素材は——中継ノードと同じ銅系。酸化で緑青が出てる」
自分の声をスマホに吹き込みながら歩く。ザインに言われた通り、自分の言葉で。技術者の言葉で。蛇口の比喩は使わない。
「50Hzの唸りが強くなってる。入口ではかすかだったのが、今ははっきり聞こえる。壁に手を当てると振動を感じる。導線自体が振動してる。漏洩電流が導線を伝わってるのか、導線の共振なのか——たぶん両方」
壁に手を当てた。冷たい。しかし微かに震えている。指先に伝わる振動。お父さんの配電盤で感じたのと同じ種類の震え。しかし——もっと深い。もっと古い。千年分の電流が、この壁を通ってきた。
レオンが先頭で松明の代わりにバルトロメイの火打ち石を叩いている。火は起きない。しかし火花が一瞬だけ通路を照らす。パチ。暗闇。パチ。暗闇。断続的な光。
ティックの翅が、かすかに光っていた。光の粉ではない。翅そのものの燐光。暗闘の中で唯一の持続的な光源。薄い。蛍より暗い。しかし目が慣れると、足元だけは見えた。
「ティック」
「なにー」
声が小さい。ティックも瘴気を感じている。いつもの元気がない。
「ありがとう。光、助かる」
「……ティック、光るだけだからー」
光るだけ。それだけで——ここでは十分だった。
◇
さらに降りた。
推定二百メートル。通路が広くなり始めた。天井が高くなった。壁面の導線が——交差し始めた。
交差点。導線と導線が出会う場所。中継ノードの結節点と同じ構造だが、ここでは交差点の数が桁違いに多い。壁一面が交差点の集合体になっている。回路基板のパターンのように。
「導線交差点の密度が上がってる。中枢回路に近い。接合部の——」
声が止まった。
耳鳴りが始まった。
突然ではなかった。さっきから気配はあった。50Hzの唸りの中に、何か別の音が混じっている気がしていた。気のせいだと思っていた。壁の反響だと思っていた。
違った。
声だった。
「——痛い」
耳の奥で。鼓膜の内側で。空気を通していない。直接脳に届く声。
「——助けて」
膝が折れた。
石の床に両膝をついた。スマホを落としそうになって、両手で握りしめた。画面が揺れている。録音がまだ走っている。アカリの荒い呼吸を拾っている。
「アカリ!」
レオンの声が聞こえた。遠い。耳鳴りの向こうで。
「アカリちゃん!」
ティックの声。もっと近い。肩の上。しかし声が小さい。耳鳴りが大きすぎる。
声が——増えていく。
一つではない。二つでもない。何十。何百。何千。声の層が重なっていく。痛い。助けて。怖い。やめて。帰りたい。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
千年分だった。
この城が封じているもの。千年分の痛みの蓄積。封印の回路が捕捉して閉じ込めてきた、千年分の——声。スライムの残滓に手を触れたとき、一瞬だけ見えた人影と声。あの声と同じ種類の。しかし量が違った。あのときは数十人分。ここでは——数えられない。
アカリの感受性が反応している。生贄の条件。聖女に選ばれる理由。「痛みを引き受ける能力」。ここまで来て初めてわかった。聖女の犠牲とは、この痛みの総体を一身に引き受けて、光に変換して、放電することだったのだ。マナが台座の上で微笑んだ理由。ユウが顔を動かさなかった理由。千年分の声が流れ込んでいたのだ。それを——受け止めて。
「——っ」
歯を食いしばった。
声が止まらない。痛みが止まらない。膝が石の床に押しつけられている。立てない。目を開けているのに何も見えない。耳鳴りが全てを覆っている。
手が——動いた。
右手。スマホを握っている手。指が画面をタップした。無意識に。録音はまだ走っている。
「……録音続行」
自分の声が聞こえた。震えている。でも聞こえた。
「千年分の声が……聞こえてる。痛みのノイズ。周波数は……複合的。単一の周波数じゃない。何層にも重なってる。低い層は……50Hz前後。封印回路の基本周波数と同じ。高い層は……わからない。人の声の帯域に近い。三百から三千ヘルツ。声の成分が……回路のノイズに乗ってる」
技術者の言葉で記録している。膝をついて、歯を食いしばって、千年分の痛みに押し潰されながら——それでもスマホに向かって、聞こえるものを言語化している。
「……これがストレージの痛みの声。封印が閉じ込めてるもの。聖女が引き受けるもの」
バルトロメイの手がアカリの肩を掴んだ。大きな手。引き起こそうとしている。
「立てるか」
「……あと、少しだけ」
「無理をするな。戻——」
「戻らない」
声が——はっきり出た。
「戻らない。録音がまだ必要です。ここでしか聞けないデータがある」
バルトロメイの手が、肩の上で止まった。引き起こすのをやめた。肩に置いたまま。支えている。
「……三分だけだ」
ザインの声が暗闇から落ちてきた。冷たい声。しかし三分という時間を指定した。無制限に聞かせるつもりはないが、必要なデータだとは認めている。
三分。
アカリは膝をついたまま、三分間、声を聞いた。
千年分の声を。
録音が走っている。アカリの呼吸と、アカリの解説と、そして——壁面から漏れ出る50Hzの唸りを。声そのものはスマホのマイクには拾えない。アカリの感受性だけが聞いている音だから。しかしアカリの言語化は録音できる。「痛みの層が変わった。深い層に……もっと古い声がある。言語が違う。何を言ってるかわからない。でも痛いという感覚だけは——同じ」。
三分が過ぎた。
バルトロメイの手が引き起こした。立ち上がった。膝が震えていた。
スマホを見た。3%。
録音を停止した。
◇
中枢に辿り着いた。
通路が終わった。広い空間に出た。
円形の部屋。直径は——十メートルか、二十メートルか。暗くて全体は見えない。しかしティックの翅の燐光と、壁面の導線のかすかな自発光で、輪郭だけは見えた。
壁面の全面が回路だった。
天井から床まで。全方向。導線の溝が壁面を覆い尽くしている。中継ノードの壁面を百倍に濃縮したような密度。溝の中に——微かな光が走っている。魔力。回路がまだ生きている。千年間、動き続けている。
中央に台座があった。
石の台座。人が一人立てる大きさ。表面が磨かれている。千年分の足が立った跡。何十人もの聖女が立った場所。マナが立った。サキが立った。ユウが立った。光になって消えた場所。
台座の表面に——焦げ跡があった。何層にも重なった焦げ跡。放電の痕跡。聖女の犠牲のたびに、台座の表面が焼けた。千年分の焦げ跡が、地層のように積み重なっている。
「ここだ」
ザインの声が、静かに言った。
「封印の中枢。ここにバイパスを組む」
アカリはスマホを持ち上げた。3%。
カメラを起動した。
「一枚だけ。一枚で全部撮る」
暗い。フラッシュを使わなければ写らない。フラッシュは電力を食う。一枚——一回のフラッシュで、1%以上持っていかれる。
構図を決めた。台座を中心に。壁面の回路を可能な限り広く。導線の交差点。接合部。接地点。ザインが見つけた「三センチ」の問題がある場所。全部を一枚に収める。
目を凝らした。暗闘の中で、回路の配置を頭に叩き込んだ。写真は消えるかもしれない。スマホが死んだらデータごと消える。しかし今、この目で見て、構図を決める過程で分析した情報は——頭に残る。
シャッターを切った。
フラッシュが焚かれた。
白い光が円形の部屋を一瞬で照らした。
見えた。全部見えた。壁面の回路。導線の配置。交差点のパターン。台座の周囲の接続部。焦げた跡。劣化した接合部。接地点——導線が急に曲がっている場所。ザインが指摘した場所。三センチずらすべき場所。
一瞬で——全てを見た。
フラッシュが消えた。暗闇が戻った。残像が目の裏で燃えている。回路のパターンが焼き付いている。
ティックが「ぴゃっ」と小さな悲鳴を上げた。フラッシュに驚いたのだ。翅がばたついた。
スマホを見た。
1%。
画面の上部に赤いバッテリー表示。警告。「バッテリー残量が少なくなっています」。
1%。
写真は——撮れていた。画面に表示されている。暗い部屋にフラッシュの白い光が当たった、一枚の写真。壁面の回路。台座。導線。全部写っている。
この写真が、スマホに残る最後のデータになる。
あと1%。
「……撮れた」
声が掠れた。
ザインが近づいてきた。スマホの画面を覗き込んだ。1%の光で照らされた、ザインの目。写真の中の回路を見ている。
「……接地点が見えるか」
「見えます。右壁面の中央やや下。導線が七十度で折れてる箇所。ここの三センチ下に新しい接地点を作る」
「わかっているなら——もう十分だ」
ザインの声が、静かだった。
もう十分。写真は撮った。データは頭に入った。あとは——手で組むだけ。
スマホの画面が暗くなった。スリープ。1%の節電。
暗闇の中に、50Hzの唸りだけが鳴っている。千年分の声が、壁面の向こうで囁いている。
あと1%。




