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第63話「50Hzの唸り」

 魔王城ケルンシュメルツが、近づいてきた。


 街道を半日歩いた。聖都の門を出てから、誰もほとんど喋らなかった。レオンが先頭。バルトロメイが殿。ザインとイレーネが中間。アカリはティックを肩に乗せて、一行の真ん中を歩いていた。


 魔王城。


 名前ほど仰々しくはなかった。黒い塔——というより、黒い岩山だった。大地から突き出た巨大な石の塊。自然の岩山のようにも見えるし、人工物のようにも見える。表面に窓はない。装飾もない。ただ黒い。太陽の光を吸い込んで、影を返さない黒。


 近づくにつれて、空気が変わった。


 重い。


 肩に何か載せられたような重さ。物理的な重量ではない。空気そのものが粘度を持っているような。息を吸うと、肺の奥に冷たいものが触れる。


 「……瘴気だ」


 バルトロメイが低い声で言った。


 「二十年前より濃い。封印が劣化している証拠だ」


 封印が弱まっている。聖女の犠牲による強制放電を十年ごとに繰り返してきたが、回路自体が劣化している。サキが見つけたバグ。マナが計算した定常リーク。全てが、この空気の重さに凝縮されている。


 入口が見えた。


 岩山の基部に、人が一人通れるほどの亀裂。扉ではない。岩が割れてできた隙間。中から——風が吹いている。冷たい。地下から吹き上がってくる風。


 風に——音が混じっていた。


 低い音。


 アカリの足が止まった。


 「……この音」


 ティックが肩の上で首を傾げた。「おとー?」


 「聞こえない? 低い唸り。ずっと鳴ってる」


 耳を澄ませた。低い。低い。人間の声帯では出せない低さ。空気の振動というより、岩そのものが震えているような。


 知っている音だった。


 お父さんの作業場。配電盤の前。夏の夜。窓を開けて作業していると、配電盤からかすかな唸りが聞こえることがあった。ブーンという低い音。お父さんが手を止めた。「アカリ、この音が聞こえるか」。「うん」。「この音は50Hzのハムノイズっていうんだ。接地がちゃんとできてないときに出る。危険な音だ」。


 50Hz。東日本の交流電源の周波数。接地不良のとき、漏洩電流がアース線を伝わりきれずに筐体や配管を通って漏れ出す。その微弱な電流が金属を振動させて出す音——ハムノイズ。


 「……50Hzだ」


 声に出した。


 「接地不良のサイン。この城全体が——漏電してる」


 ザインが振り返った。「漏電?」


 「封印の回路の接地が不完全で、魔力が回路の外に漏れてる。それがこの音になってる。中継ノードでは48Hzだった。ここは——もっと低い。もっと深い。回路の中枢が近い」


 自分でも驚いた。言葉が——するりと出た。蛇口とか排水口とか言わなかった。接地不良。漏電。漏洩電流。専門用語がそのまま口から出てきた。グレゴリウスに蛇口の比喩で説明したのが、ほんの半日前のことなのに。


 大聖堂では「伝わるように」話していた。今は——伝える相手がグレゴリウスではない。ザインだ。ザインには専門用語がそのまま通じる。翻訳がいらない。


 ザインが頷いた。「周波数が低いということは——中枢に近いほど、定常リークが大きい」


 「はい。蛇口が——」


 言いかけて、止めた。


 「漏洩量が大きい。回路の劣化が進んでる。中枢に近づくほど、もっと大きくなるはず」


 蛇口と言いかけて、言い直した。自分でもよくわからない衝動で。ここから先は——比喩ではなく、事実で話す場所だと思った。


          ◇


 亀裂に入った。


 暗い。


 一歩入った瞬間に、外の光が消えた。石の壁が光を吸収している。松明がない。バルトロメイが腰の火打ち石で火を起こそうとしたが、火花が散っても火がつかない。瘴気が酸素を薄くしているのだろうか。


 スマホを取り出した。5%。


 画面が点いた瞬間——安心した。数字が見える。パーセンテージが見える。数字があれば世界を把握できる。数字がなければ、ここがどこで、自分に何ができるのかすらわからない。画面の光がある間だけ、自分が技術者でいられる。


 画面を点けた。白い光が通路を照らした。狭い。幅は一メートルもない。天井が低い。バルトロメイは頭を下げて歩かなければならない。壁面は黒い岩——いや、岩ではない。


 壁面に導線があった。


 石の表面に刻まれた溝。中継ノードの壁面と同じ。しかし密度が違った。中継ノードでは腕の太さの溝が数本走っていた。ここでは——無数の細い溝が、壁面全体を覆っている。血管のように。毛細血管のように。


 「……すごい」


 呟いた。


 回路の密度が桁違いだった。中継ノードが動脈なら、ここは心臓だ。全ての導線が収束する場所。封印の中枢。千年前の設計者が組んだ、人類最大の回路。


 心臓——と思って、また比喩を使いかけて、首を振った。


 中枢回路。ここは中枢回路だ。


 「ザインさん」


 「何だ」


 「最後の5%で——写真を撮ります」


 ザインが立ち止まった。振り返った。白い外套がスマホの光に照らされて、狭い通路で壁のように見えた。


 「写真」


 「中枢回路の全体像を撮影します。導線の配置、接合部の位置、接地点の場所、全部。一枚に収めます。スマホが死んでも、私の頭にデータが残る。目で見たものは忘れるかもしれないけど、写真を撮るとき——構図を決めるとき——回路の配置を分析するから、その分析結果が記憶に残る」


 ザインが黙っていた。


 「カメラの起動と撮影で、たぶん2%くらい使います。残り3%で録音もしたい。50Hzの唸りのパターンを記録したい。どの壁のどの位置で振動が変わるか、耳で聞いてスマホに喋って録音する。メモ帳代わりに」


 5%の使い方。最後の5%の使い方を、アカリは歩きながら考えていた。半日の道のりで。レオンの手の温度が消えた後の街道で。ティックの「やだ」が肩の上で残っている間に。


 写真に2%。録音に2%。残り1%は——予備。何が起きるかわからない。


 「……合理的だな」


 ザインが言った。


 「だがカメラを使うなら、中枢に到達してからだ。途中で無駄に撮るな」


 「はい」


 「録音は——歩きながらでいい。お前の声で説明しろ。お前の言葉で。後で聞き返したとき、お前が一番理解できる言葉で」


 お前の言葉で。


 ザインの指示が、胸に刺さった。


 お前の言葉。ベルの台詞ではなく。グレゴリウスに伝えるための蛇口の比喩でもなく。アカリ自身の——技術者の言葉。


 「……わかりました」


 スマホを握り直した。5%。


 画面を消した。暗くなった。


 暗闇の中で——50Hzの唸りだけが鳴っている。石の壁を通して。足元から。天井から。全方向から。低い。深い。お父さんの作業場で聞いた音と同じ周波数。しかし音量が違う。作業場の配電盤は小さな唸りだった。ここでは——城全体が震えている。


 「……お父さん」


 声に出さなかった。心の中で呼んだ。


 「お父さん、私いま——すごく大きな配電盤の前にいるよ。千年前の。接地不良で50Hz鳴ってる。手で触ったら感じるかな。お父さんなら、指一本で不良箇所わかるかな」


 「機械に頼る前に、自分の指を信じろ」。


 お父さんの口癖が、50Hzの唸りの中で反響した。


 あと5%で、スマホが死ぬ。


 スマホが死んだら——機械には、もう頼れない。


 残るのは、自分の指だけだ。

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