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第62話「指一本触れさせない」

 「——儀式の準備を始めよ」


 グレゴリウスの声が大聖堂に響いた。


 僧侶たちが立ち上がった。さっきまで膝をついていた僧侶たちが、大司教の一声で立った。騎士たちが動き始めた。左右から。アカリを囲むように。


 メタリックテープが床に散らばっている。光の洪水の残骸。玩具の残骸。最後のハッタリは——グレゴリウスには届かなかった。


 ティックが肩の上で震えていた。「アカリちゃん……」。小さな声。翅が畳まれている。


 バルトロメイが一歩前に出た。大きな体がアカリの背後に立った。何も言わない。しかし——そこにいる。


 ザインが腕を組んだまま、グレゴリウスを見ている。理論家は言葉で戦い終えた。これ以上は理論の領分ではない。


 イレーネが手帳を胸に抱えている。ペンは手帳の間に挟まれたまま。もう書かない。しかしイレーネの目は——全てを見ている。最後まで見届ける目。


 騎士たちが近づいてくる。五人。甲冑の足音が石の床に響く。整然とした足音。


 「聖女を、準備の間にお連れしろ」


 グレゴリウスの声。


 準備の間。儀式の支度をする部屋。白い衣を纏わせて、祈りを捧げさせて、台座に立たせる。マナが立った台座。ユウが立った台座。光に包まれて消えた場所。


 騎士の一人が手を伸ばした。アカリの腕に向かって。甲冑の篭手。鉄の指。


 届かなかった。


 剣が割り込んだ。


 銀色の刃が、篭手とアカリの腕の間に差し込まれた。速かった。音もなく。風だけが頬を撫でた。


 レオンだった。


 アカリの前に立っていた。背中が見えた。灰色の外套。腰の剣帯。抜き身の剣が右手にある。


 いつの間に抜いたのか。アカリは見ていなかった。気づいたときには——レオンの背中が目の前にあった。


 騎士たちが止まった。


 大聖堂が凍った。今日三度目の凍結。一度目はイレーネの「偽物でございます」。二度目はクラッカーの光。三度目は——レオンの剣。


 「レオン」


 グレゴリウスの声が、低く響いた。


 「何をしている」


 レオンは答えなかった。


 灰色の目が、正面の騎士を見ていた。教団の騎士。同僚。あるいはかつての同僚。レオンは教団の騎士だった。大司教に仕える護衛騎士だった。今——その剣を、大司教の騎士に向けている。


 「レオン。剣を収めよ。これは命令だ」


 グレゴリウスの声が硬くなった。


 レオンの肩が動いた。深く息を吸った。吐いた。


 「この女には——指一本触れさせない」


 低い声だった。震えていなかった。洞穴の入口で拳を握っていたとき震えていた声が——今は、震えていなかった。怒りの拳を作ったあの夜から、レオンの中で何かが固まっていた。


 大聖堂が沈黙した。


 レオンの言葉が石壁に反響した。反響が消えるまで、誰も動かなかった。


 「——教団を裏切るのか」


 グレゴリウスの声が、静かだった。怒りではなかった。確認だった。


 「裏切るのではない」


 レオンの声が返った。


 「十七歳の女を殺すシステムを——拒否する」


 十七歳。あの夜、洞穴の入口で独り言のように口にした数字。今——大聖堂で、大司教の前で、もう一度。


 グレゴリウスの目が細くなった。痛みの表情だった。しかし——驚きはなかった。三十年の経験が教えている。聖女の隣にいる騎士は、いつか教団と対立する。カイルがそうだった。バルトロメイがそうだった。そして今、レオンが。


 騎士たちが剣に手をかけた。五人。レオンに向けて。


 「やめろ」


 グレゴリウスが片手を上げた。騎士たちが止まった。


 「血を流す場ではない。ここは聖堂だ」


 長い沈黙。グレゴリウスの目がレオンを見ていた。


 「——出て行け」


 静かな声だった。


 「出て行け。お前も、この女も、全員。聖都から出て行け。——ただし」


 グレゴリウスの声に、最後の硬さが戻った。


 「聖女が教団の管轄を離れた時点で、封印の猶予は終わる。次の聖女召喚の準備に入る。——お前たちが何を企もうと、教団は止めぬ。しかし回路に手を触れたとき——暴走が起きたとき——」


 壁を指した。三十七の名前の壁を。


 「その責は、お前たちが負え」


 それが——グレゴリウスの最後の言葉だった。


 追放ではなかった。処刑でもなかった。放逐。「好きにしろ。しかし結果は自分で引き受けろ」。止めもしない。助けもしない。三十年分の重さを、全部こちらに渡した。


 レオンが剣を鞘に戻した。かちゃり。エミルが先ほど剣を鞘に戻したときと同じ音。しかし意味が違った。エミルの音は信仰の表明。レオンの音は——決別。


 レオンがアカリの手を取った。


 初めてだった。レオンがアカリに触れたのは。手と手が——初めて。


 レオンの手は大きかった。硬かった。剣胼胝がある。しかし——温かかった。


 「走れ」


 走った。


 大聖堂の身廊を。石の柱の間を。メタリックテープを踏みながら。金と銀の帯が足元で散った。ステンドグラスの光を横切った。赤。青。金。色の帯を走り抜けた。


 バルトロメイが続いた。ザインの白い外套が翻った。イレーネの修道服の裾が乱れた。ティックがアカリの肩にしがみついて、翅を必死に畳んでいた。


 エミルの目が見えた。走り抜ける一瞬。若い騎士の目。口が動いていた。「せいじょ——」。声は聞こえなかった。走っていたから。


 大聖堂の扉を抜けた。朝の光が全身を打った。


 走り続けた。広場を横切って。路地に入って。石畳の街を。聖都の門に向かって。


 背後から追っ手の気配はなかった。グレゴリウスは追わなかった。


 門を抜けた。街道に出た。


 全員が息を切らしている。バルトロメイが膝に手をついた。ザインが壁に手をついた。イレーネだけが——息を乱していなかった。顔は平坦なまま。


 レオンが——手を離した。


 アカリの手が、急に軽くなった。寒くなった。


 レオンは前を向いていた。街道の先を見ている。灰色の目に、迷いはなかった。


 「……もう戻れないよ」


 アカリの声が掠れていた。


 「戻る場所はいらない」


 短い声。それだけだった。それだけで——十分だった。


          ◇


 街道を歩き始めた。


 魔王城への強行軍。全員が無言で歩いている。


 アカリはスマホを見た。5%。


 大聖堂で7%だった。走りながら画面が起きていた分。スリープに入る前の消費。


 5%。


 あと5%。


 これが最後の電力。モバイルバッテリーは空。コンセントはこの世界にない。5%が尽きたら——スマホは死ぬ。


 カメラが使えなくなる。計算機が使えなくなる。マイクが使えなくなる。ユウの写真が見られなくなる。マナの数式が見られなくなる。


 全部消える。


 「……あと5%」


 呟いた。


 「最後に——何を撮ろう。何に使おう」


 ティックが肩の上で顔を上げた。小さな目がスマホの画面を見ている。白い光。アイアン・ベルの壁紙。


 「ねえ」


 ティックの声が、いつもと違った。小さくて。静かで。語尾が伸びない。


 「あの光——もうすぐ消えるの?」


 アカリの足が止まった。


 あの光。ティックにとって、スマホは「光」だった。最初から。アカリの持つ不思議な光。LEDの光も、フラッシュの光も、画面の光も——全部、ティックにとっては「光」だった。


 その光が、もうすぐ消える。


 「……うん」


 声が小さかった。


 ティックの大きな目が、スマホの画面を見つめていた。白い光に照らされた、小さな顔。翅がゆっくり動いている。光の粉は出ていない。ただ——見つめていた。


 「……やだ」


 一語。


 「やだー」ではなかった。「やだ」。短くて。硬くて。初めて聞くティックの声だった。


 アカリはティックの頭に指先を置いた。小さな頭。温かい。光の粉が指先に付いた。


 「……私もやだ」


 前を向いた。


 街道の先に、影が見えた。


 黒い影。地平線の上に聳える、巨大な塔の影。


 魔王城ケルンシュメルツ。


 あそこに——封印の本体がある。回路の中枢がある。バイパスを組む場所がある。


 5%で、辿り着かなければならない。

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