第60話「偽物でございます」
沈黙が、長くなっていた。
アカリの言葉が尽きて。グレゴリウスの問いが宙に残って。大聖堂のステンドグラスの光だけが、ゆっくりと角度を変えている。
誰も動かない。僧侶たちは壁際に立っている。騎士たちは剣の柄に手を添えている。エミルが唇を噛んでいる。
アカリは立っていた。14%のスマホを握って。答えられないまま。「直す」と言えないまま。
足音がした。
アカリの後ろから。規則正しい足音。硬い靴底が石の床を叩く音。一歩。二歩。三歩。アカリの横を通り過ぎた。
イレーネだった。
修道服の裾が石の床を擦った。背筋が真っ直ぐ。手帳を左手に持っている。右手にペン。いつものペン。インクの染みが指先についている。何千行もの報告書を書いてきた指。
イレーネがアカリとグレゴリウスの間に立った。アカリの斜め前。半歩だけ前に出て。グレゴリウスに向き直った。
微笑んでいなかった。
イレーネが微笑んでいない顔を見たのは、三度目だった。印章を握りしめた夜。ショートの後、ペンが止まった夜。そして今。
素の顔。隠すものが多すぎて布が足りなかった夜とは違う。今は——布を自分で剥がしている。
「大司教猊下」
イレーネの声が、大聖堂に響いた。
澄んでいた。報告書を読み上げる声。しかしいつもの平坦さの下に、何かが震えていた。蓋の下で何かが動いている声。
「報告いたします」
グレゴリウスの目がイレーネに向いた。教団の監視者。聖女の真偽を見極めるために派遣された修道女。その報告を、グレゴリウスは待っていたのだ。
「聖女アカリに関する調査報告を、ここに申し上げます」
イレーネが手帳を開いた。
あの手帳。何冊目だろう。毎晩毎晩、焚き火の残り火で書き続けた手帳。アカリが泣いたことも、笑ったことも、怒ったことも、震えたことも、全部この中に記録されている。偽物の聖女の全記録。
イレーネの目が手帳に落ちた。一行目を読み始めた。
「聖女アカリは——」
間があった。
一秒。
「——偽物でございます」
大聖堂が凍った。
空気が止まった。ステンドグラスの光だけが動いている。色の帯が石の床を這っている。それ以外の全てが——止まった。
アカリの血の気が引いた。
わかっていた。イレーネが監視者であることは最初から知っていた。報告書を書いていることも知っていた。偽物だと見抜かれていることも——わかっていた。
わかっていたのに。
この場で、グレゴリウスの前で、大聖堂の全員の前で、「偽物」と宣告されたとき——膝が震えた。
レオンの手が動いた。剣の柄を握った。反射。護衛騎士の反射。聖女を脅かす存在に対する。しかし——誰に向けた反射なのか。イレーネに? グレゴリウスに? レオン自身にもわかっていないようだった。手が柄を握ったまま、宙に固まっている。
バルトロメイの目が開いた。何も言わない。しかし大きな体が、微かに前に傾いた。
ティックが肩の上で翅を震わせた。「にせもの……?」。小さな声。意味がわかっていない。わかっていないのに、声が悲しそうだった。
グレゴリウスは——動かなかった。青い目がイレーネを見ている。報告の続きを待っている。
「聖女アカリは聖典の知識を持たず、祈りの作法を知らず、聖術の修練を受けた形跡はございません。変身と称する行為は、異界の工芸品による物理現象であり、魔力に由来するものではございません」
イレーネの声が淡々と続いた。報告書の文体。事実の羅列。
「光は発光器具によるもの。音響は拡声器具によるもの。戦闘における聖術は、化学物質の応用と推察されます」
LEDと。スピーカーと。アジシオ。全部見抜かれていた。最初から。
「以上の根拠により、聖女アカリは——聖女ではないと、結論いたします」
手帳のページが、一枚めくれた。
沈黙。
大聖堂が沈黙している。グレゴリウスの表情が変わらない。僧侶たちがざわめきかけて——止まった。イレーネの手帳がまだ開いているから。報告が、まだ終わっていないから。
「——しかしながら」
イレーネの声が変わった。
平坦さが消えた。震えが——表に出た。蓋が開いた。
「しかしながら、彼女の行為は本物でございます」
アカリの目が見開かれた。
「先代聖女マナの遺品を発見し、三十年前の理論体系を解読いたしました。先代聖女サキの記録媒体を復旧し、二十年前の研究データを回収いたしました。先代聖女ユウの記録を分析し、十年前の実測値を統合いたしました」
イレーネの声が速くなっていた。いつもの読み上げの速度ではない。もっと速い。言葉が溢れている。
「三人の聖女が三十年かけて残した遺産を、一つの設計図に統合する能力は——本物でございます」
手帳のページがまためくれた。しかしイレーネの目は——手帳を見ていなかった。手帳から顔を上げていた。グレゴリウスを見ていた。
暗唱していた。
何度も書き直した報告書の最後の段落を、手帳を見ずに、グレゴリウスの目を見て、暗唱していた。
「彼女は先代の遺品の前で泣きました。技術者として失敗し、蹲りました。火傷を負いました。仲間を拒絶し、後に謝罪しました。眠れぬ夜を過ごしました。——これらは全て、私が直接観察した事実でございます」
イレーネの目が——光っていた。涙ではない。それよりも硬い光。決意の光。修道服の下に隠してきたものを、全部出す光。
「聖女ではない人間が、なぜここまで他人のために苦しむのか」
声が大聖堂に反響した。問いが石壁に跳ね返った。
「——この問いに対する答えを、私は持ち合わせておりません」
手帳を閉じた。
閉じて、胸の前に抱えた。何冊分もの記録を、両手で抱えた。
「最後に——付記がございます」
イレーネの声が、静かになった。報告書の声でも、暗唱の声でもない。もっと小さな声。修道服の下から、ようやく出てきた声。
「彼女を断罪することが正しいのか」
間。
「私には——わかりかねます」
ペンを持っていた右手が、下ろされた。
ペンが——手帳の間に挟まれた。
書くことを、やめた。
監視者の役割を、降りた。
大聖堂が沈黙していた。イレーネの報告の余韻が石壁に染み込んでいく。「偽物でございます」と「本物でございます」が、同じ声で、同じ場所で、同じ人から発せられたことの重さが——空気に残っていた。
アカリは泣きそうだった。
泣きそうだったが、泣かなかった。泣いたら——イレーネの報告書が台無しになる。イレーネは事実を報告した。泣いたら感傷になる。イレーネが命を賭けて守った「事実」の重さを、涙で薄めてはいけない。
イレーネは振り返らなかった。アカリのほうを見なかった。グレゴリウスを見たまま。背筋が真っ直ぐ。報告を終えた修道女の姿勢。
グレゴリウスが——目を閉じた。
三秒。
目を開けた。表情は変わっていなかった。しかし、まばたきが一回多かった。
「……報告は受けた」
低い声。
「偽物であるという結論は——儂の推測と一致する。しかし——」
グレゴリウスの声が止まった。「しかし」の先を、大司教自身が探している。
その隙間に——別の足音が割り込んだ。
硬い。乾いた。白い外套の裾が石の床を叩く音。
ザインだった。
ザインがアカリの前に出た。イレーネの横に立った。腕を組んで。グレゴリウスを見上げて。
「偽物かどうかは——もう問題ではない」
ザインの声が、大聖堂に切り込んだ。
「この娘の技が本物かどうか。それだけが問題だ」
グレゴリウスの目がザインに向いた。
「ザイン。お前は——この娘の味方をするのか」
「味方ではない」
即答。
「事実を述べている。この娘の配線技術は、マナが三十年間求めて得られなかったものだ。理論と実装を繋ぐ手。設計図を回路にする手。マナにはなかった。サキにもなかった。ユウにもなかった。——この娘にだけ、ある」
ザインの声に感情はなかった。数式を読み上げるのと同じ声。しかしその無感情さが——事実の重さを際立たせていた。
「バイパスの失敗は設計図の欠陥による。配線者の技術不足ではない。私が一晩かけて検証した。接地点を修正すれば——バイパスは機能する」
グレゴリウスが沈黙した。
アカリの言葉だけでは届かなかった。しかしイレーネの報告が加わった。ザインの理論が加わった。三つの声が重なった。偽物の聖女と、監視者を降りた修道女と、味方ではないと言い張る理論家。
グレゴリウスは答えなかった。答えの代わりに——問いを返した。
「代替の策を示せ」
声が硬かった。
「サキの暴走のような失敗を繰り返さないと、どう証明する。理論を聞きたいのではない。証拠を見せろ。この場で。この目の前で」
証拠。
この場で。
スマホの画面を見た。10%。写真を見せ続けていたから。数式を表示し続けていたから。16%から10%——この論争で6%を消費した。
言葉を全部使った。理論を全部使った。
残っているのは——。
右手がステッキを握った。
ステッキの柄。歯車のエンブレム。LEDは死んでいる。スピーカーは沈黙している。ボタン電池は空。
しかしグリップの中に——まだ一つだけ、残っているものがある。
クラッカー。
一発だけ。最初から仕込んであった。コスプレ用の小道具。メタリックテープが飛び出す、ただの玩具。
最後のハッタリの道具。
アカリはステッキを握り直した。
ステッキの柄を握る手が、震えなかった。




