第59話「三十年の矜持」
大聖堂の中は、光で出来ていた。
ステンドグラスから朝の陽光が降り注いでいる。赤。青。金。紫。色とりどりの光の帯が、石の柱を斜めに横切り、床に色の四角を作っている。天井が高い。声を出せば反響するだろう。咳をしても反響するだろう。
グレゴリウスが身廊の中央に立っていた。
白い法衣。金糸の肩章。背筋が真っ直ぐ。六十代半ばの体が、ステンドグラスの光の中で影を作っている。顔は——整っていた。大司教の顔。三十年分の石の顔。昨夜、壁の前で泣いた痕跡は残っていない。
グレゴリウスの背後に、二十人ほどの僧侶と騎士が並んでいた。その中に——若い騎士がいた。エミル。見習い騎士。アカリを見て、目が大きくなった。口が動いた。「せいじょさま」。声にはなっていない。
アカリは大聖堂の入口から、ゆっくりと歩いた。ステッキを突きながら。壊れかけの装甲。四つだけのLED。火傷の指が覗くグローブ。後ろにレオン、バルトロメイ、イレーネ、ザイン。ティックは肩の上。翅がまだ弱い。さっきの全力照射の疲れが残っている。
歩くたびに足音が反響した。石の床にステッキの先端がかつんと当たる音。それだけが大聖堂に響いている。
グレゴリウスの前で止まった。
五歩の距離。
見上げた。グレゴリウスはアカリより頭ひとつ半高い。白い髪に金が混じっている。青い目。マナのフラッシュバックで見た目と同じ色。しかし三十年分深くなっている。皺が刻まれている。目の下に影がある。
「——帰ったか」
グレゴリウスの声が降ってきた。低い。石壁に反響して、少し遅れてもう一度聞こえる。大聖堂の音響。
「聖女よ。中継ノードでの実験の結果を聞いている」
知っている。報告が先に届いていた。失敗したことを、グレゴリウスは既に知っている。
「バイパスは三秒で焼け落ちた。逆流。ショート。お前自身も火傷を負った。——違うか」
「……違いません」
声が小さかった。大聖堂が声を吸い込んだ。
「しかし——原因は判明しました」
スマホを取り出した。16%。画面を点けた。ザインの数式を写真に撮ったものを表示する。接地点の修正案。
「マナの回路図に設計上の問題がありました。接地点の位置です。導線が急に曲がっている場所に排水口を置いてしまった——川の急カーブで渦ができるのと同じ原理で、魔力が逆流しました。三センチずらせば——」
「聞いている」
グレゴリウスが遮った。
「マナの設計に問題があった。サキも同じ間違いを犯した。三十年かけて三人が同じ穴に落ちた。そしてお前は修正案を持っている。——全て報告で読んだ」
知っている。全部知っている。ザインの分析も。接地点の修正も。三センチの解も。
では——なぜ。
「知っていて——なぜ、認めないのですか」
声が大きくなった。大聖堂が反響した。アカリの声が石壁に跳ね返って、自分の耳に戻ってきた。
グレゴリウスの目が動いた。青い目の中に何かが走った。痛み。
「認めないのではない」
声が低くなった。
「認め——られないのだ」
その一語に、亀裂があった。大司教の威厳に、一瞬だけ走った亀裂。すぐに塞がった。声が硬くなった。
「もしお前の言う通りだとしよう。マナの回路図に欠陥があった。バイパスで修正可能だった。聖女が犠牲になる必要はなかった」
一歩、前に出た。
「ならば——マナの犠牲は何だったのだ」
声が上がった。怒鳴っているのではない。震えているのだ。
「サキの犠牲は何だったのだ。ユウの犠牲は何だったのだ。三十年間、儂が三人の少女を見送った——あの三十年は——何だったのだ」
大聖堂に声が反響した。三十年。三十年。三十年。石壁が繰り返した。
アカリは動けなかった。
グレゴリウスの目が赤かった。涙ではない。充血。眠れなかった夜の目。
「お前は『バグ』と言う」
グレゴリウスの声が、異質な音を含んだ。「バグ」。この世界の言語ではない音。アカリが使った言葉。教団の人間には意味がわからない。背後の僧侶たちがざわめいた。聞いたことのない音。異界の聖女だけが使う、異界の言葉。
「儂にはわからぬ。『バグ』とは何だ。しかし——その一語で、お前は三十年を否定しようとしている」
「否定じゃない——」
「ならば何だ!」
声が跳ねた。大聖堂が揺れたように感じた。グレゴリウスが声を荒げたのは——怒りではなかった。恐怖だった。
「マナが死んだ夜、儂は膝をついた。台座に駆け寄って——冷たい石の上で——」
言葉が途切れた。喉が詰まった。大司教の喉が。
二秒の沈黙。
声が戻った。低く、硬く。
「サキが暴走を起こしたとき。聖堂が崩れたとき。三十七人が死んだとき。儂は——この壁に名前を刻ませた」
グレゴリウスの右手が上がった。側廊の壁を指した。
あの壁。
アカリはその壁を初めて見た。
名前がある。小さな文字。何十もの。横書きで、等間隔で。名前の横に数字がある。年齢。
六十八。五十四。四十二。三十九。十一。
七。
七歳の名前がある。
「この壁の名前を全て読み上げようか」
グレゴリウスの声が一段低くなった。
「ルーカス、六十八歳。ヒルデ、五十四歳。ヨハン、四十二歳。マリア、三十九歳」
一人ずつ。名前と年齢。大聖堂が反響する。死者の名前が石壁に跳ね返って、二度ずつ響く。
「フリッツ、十一歳」
声が——震えた。
「ペーター——七歳」
沈黙。
グレゴリウスの右手が——壁に触れていた。ペーターの名前の刻みに。指先で。三十年間、何千回も触れてきた指の動き。石の表面が、その一箇所だけ滑らかになっていた。三十年分の指の摩耗で。
「これがお前の言う『バグ修正の失敗』の代償だ。三十七人の命だ。七歳の子供の命だ」
アカリの手が震えた。スマホを握る手が。画面が揺れている。
「儂は決めた。あの日に決めた。もう二度と——誰にも回路に触らせぬと。もう二度と——この壁に名前を増やさぬと」
グレゴリウスの声が静かになった。怒鳴った後の静けさではない。もっと深い静けさ。三十年間握りしめてきた決意の静けさ。
「予定通り封印の儀式を執り行う。聖女の犠牲によって封印を更新する。それが——三十年間、この教団が守ってきた方法だ」
つまり——アカリが死ぬ。
光になって消える。マナのように。サキのように。ユウのように。
三十七の名前の壁の前で、アカリは大司教を見上げた。
理論で反論できなかった。バイパスは失敗した。修正案はあるが実証されていない。「三センチずらせば直る」は理論上の話で、実際に通電したことはない。グレゴリウスが求めているのは理論ではない。もう二度と壁に名前が増えないという保証だ。
保証はできない。
失敗するかもしれない。また逆流するかもしれない。また壁に名前が増えるかもしれない。その可能性をゼロにする方法を、アカリは持っていない。
しかし。
「……それは覚悟じゃない」
声が出た。
震えていた。でも出た。ベルの台詞ではなかった。アドリブでもなかった。自分の言葉だった。
「それは覚悟じゃなかった。他に選択肢がなかっただけだ」
グレゴリウスの目が見開かれた。
「三十年間、聖女を犠牲にしてきたのは——覚悟じゃない。直す方法がわからなかったから。直す手段を持った人が、途中でみんな死んじゃったから。残された方法が犠牲しかなかった——だけだ」
声が大きくなっていた。大聖堂が反響していた。自分の声が石壁から返ってくる。
「マナは理論を作りました。でも手がなかった。誰にも理解してもらえなかった。——大司教、あなただけが聞いてくれたって、マナは言ってました」
グレゴリウスの顔が——歪んだ。一瞬。石の表情に亀裂が走った。
「サキはバグを見つけました。でも数式が書けなかった。道具がなかった。だから目測で——『こんくらいかな』って——手探りでバイパスを組んで、暴走した」
壁の三十七の名前が、ステンドグラスの光を受けて影を作っている。
「ユウは全部記録しました。七百十二枚。黙って。一人で。でも分析する知識がなかった。記録だけ残して——死んだ」
声が震えた。三人の名前を呼ぶたびに、喉が熱くなった。
「三人とも——直したかったんです。犠牲なんかなくしたかったんです。でも一人じゃ足りなかった。理論だけじゃ足りない。データだけじゃ足りない。写真だけじゃ足りない。全部揃わないと——直せない」
スマホを持ち上げた。14%。画面が暗くなりかけていた。タップして起こした。ユウの写真。聖陣の回路。導線の溝。
「今、全部揃ってます。マナの理論。サキのデータ。ユウの写真。ザインの補完。そして——」
右手を見せた。グローブの穴から覗く火傷の指。
「私の手」
グレゴリウスは動かなかった。石の顔のまま。しかし——目だけが動いた。アカリの手を見た。火傷の指を。ハンダの焦げ跡を。精密ドライバーの擦り傷を。銅線を握り続けた赤い線を。
「私はバグって呼んでます」
声が、少し落ち着いた。
「この世界の言葉じゃないから、伝わりにくいのはわかってます。でも——壊れてるんです。封印の回路が。蛇口が壊れてて、水がぽたぽた漏れてて。だから十年ごとにバケツの水を捨てなきゃいけない。バケツの水を捨てるのが——聖女の犠牲」
ティックが肩の上で身じろぎした。小さな手がアカリの首筋に触れた。
「蛇口を直せば——バケツは要らなくなる」
グレゴリウスは沈黙していた。
長い沈黙。
ステンドグラスの光が、ゆっくりと角度を変えていた。朝の太陽が動いている。赤い光がグレゴリウスの法衣を染めていく。
「……蛇口を直そうとして——三十七人が死んだ」
静かな声だった。
「それでも直すと言うか。また壁に名前が増えるかもしれぬと知っていて」
アカリは壁を見た。三十七の名前。小さな文字。七歳のペーター。
答えられなかった。
「直す」とは言えなかった。三十七人の命の前で。七歳の子供の名前の前で。「次は大丈夫です」とは——言えなかった。サキと同じ言葉を繰り返す資格が、自分にあるのかわからなかった。
大聖堂が沈黙していた。
僧侶も騎士も動かない。エミルが拳を握りしめている。レオンの手が剣の柄に触れている。バルトロメイが目を閉じている。ザインが腕を組んでいる。イレーネが——ペンを持っている。
アカリは立っていた。14%のスマホを握って。壊れかけの装甲で。火傷の手で。
言葉が見つからない。理論では崩せない。「次は」では届かない。三十年の矜持の前で、十七歳の言葉が——足りない。
でも、立っていた。




