第58話「壊れかけの変身」
鐘が鳴った。
聖都ゴルトリヒトの朝。大聖堂の鐘楼から低い音が降ってくる。石の街路に反響して、空気を震わせて、アカリの鳩尾に届く。
大聖堂の前の広場。朝の光。ステンドグラスが外壁から色を投げている。赤と青と金色の光の断片が、石畳の上に散らばっている。
広場には人がいた。僧衣の信徒。甲冑の騎士。修道士。数十人。グレゴリウスが聖女の帰還を待っていた。
一行は昨夜、聖都に戻った。中継ノードから三日かけて。アカリはほとんど喋らなかった。歩きながら、ザインの羊皮紙を何度も読み返していた。接地点の修正案。三センチ下流に。それだけで——直るはずだ。はず。
しかし「はず」では大司教は動かない。
「直せます」では足りない。「失敗しません」では足りない。サキの暴走を知っている人間に、言葉だけで信じさせることはできない。
だから——ハッタリがいる。
大聖堂の扉の前。アカリは立ち止まった。
「……変身する」
レオンが振り返った。バルトロメイが眉を上げた。ティックが肩の上でぴくりと翅を動かした。
「今から大司教と会う。聖女として会う。偽物だけど——偽物なりの、全力で」
バックパックを下ろした。
◇
中身を取り出した。
胸部装甲板。EVA素材にメタリック塗装。三ヶ月かけた自作品。表面に傷がある。影狼戦でぶつけた傷。街道で転んだ傷。中継ノードの壁面に体を押しつけた傷。旅の傷だらけ。メタリック塗装が剥げて、下のEVA素材の灰色が覗いている。
肩アーマー。左右。左のアーマーの端が欠けている。いつ欠けたのか覚えていない。右のアーマーは無事だが、固定用のマジックテープの粘着が弱くなっている。
ユーティリティベルト。工具ポーチとバッテリーボックスをぶら下げる腰帯。革の表面が汗と埃で変色している。
グローブ。右手の人差し指と中指に、火傷の跡に合わせた穴が開いている。ショートのとき焼けたのだ。
LEDユニット。基板一枚。チップLEDが十二個——だった。
基板を見た。
十二個のチップLEDのうち、光っているのは四つだった。
四つ。
影狼戦の衝撃で断線して修理したのが一個。その後の旅路でハンダが割れて脱落したのが三個。接触不良で点かなくなったのが二個。バッテリーボックスの単四電池が劣化して、電圧が下がって点灯閾値を割ったのが二個。
残りの四つも——弱い。十二個フル点灯のときの輝度とは比較にならない。薄暗いオレンジ色。チップLEDの最期の光。電池が切れかけの懐中電灯と同じ色。
三ヶ月かけたLED配線四十時間の結晶が、四つの弱い光になっていた。
「……これで変身するの?」
自分に聞いた。
ティックが肩から飛び立った。基板の上に降りた。小さな手で、消えたチップLEDをつんつん突いた。
「死んでるー。この子も死んでるー。この子も——」
一個ずつ確認している。死亡宣告。十二個のうち八個に、ティックが死亡宣告を下した。
「ティック」
「なにー?」
「光の粉、出せる? LEDの代わりに」
ティックの大きな目がまばたきした。
「出せるよー。でもずっとは無理だよー。ティックも疲れるんだよー」
「ずっとじゃなくていい。変身のときだけ。大聖堂に入るときだけ。最初の一分だけ持てばいい。第一印象が全部だから」
ティックが翅をばたつかせた。光の粉がぱらぱらと散った。金色の微粒子。
「やるー! ティック、がんばるー!」
小さな拳を握っている。拳骨の力はないが、意志はある。
◇
メガネを外した。
世界がぼやけた。大聖堂の輪郭が溶けた。ステンドグラスの色が滲んだ。はっきり見えるのは手の届く範囲だけ。自分の指先と、足元の装甲板と、肩の上で翅を震わせているティック。
いつもの手順。変身前にメガネを外す。ベルも変身前にメガネを外す。冴えない女子高生が、メガネを外した瞬間から——別人になる。
別人にはなれない。アカリはアカリのままだ。偽物のまま。でも——偽物なりの全力がある。
胸部装甲板を巻きつけた。旅装束の上から。マジックテープの音がべりっと鳴った。位置を合わせる。歯車のエンブレムが正面に来るように。指先でエッジをなぞった。傷がある。塗装が剥げている。でもエンブレムの歯車は——まだ回る。
肩アーマー。左。欠けた端をテープで補強してある。右。マジックテープが弱いから、銅線で縛った。即席の固定。見た目は悪い。でも外れない。
ユーティリティベルト。腰に巻く。工具ポーチ。精密ドライバー。ニッパー。銅線リール。テスター。戦う武器ではない。直す道具。
グローブ。右手の火傷の穴から指先が覗いている。人差し指と中指。ショートの火傷の赤い跡。隠せない。隠さなくていい。
LEDユニットの電源を入れた。
四つ。薄暗いオレンジの光が四つ。胸の装甲板の上で、かろうじて光っている。十二個あったうちの四つ。三分の一。
「ティック」
「いくよー!」
ティックが飛び立った。アカリの周りを旋回し始めた。高速で。翅から光の粉が溢れた。金色の粒子が、渦を巻いてアカリの体を包んだ。LEDの弱い光と、ティックの光の粉が混ざった。オレンジと金色。本来のベルの変身エフェクトは白と銀だ。全然違う。でも——光っている。
光っているだけで、十分だった。
広場の信徒たちがざわめいた。「聖女が——」「光っている——」「変身だ——」
追いつかない。ティックの光の粉が、LEDの代わりをするには量が足りない。五秒で翅の振動が鈍くなった。十秒で光の粉の量が減った。ティックが息を切らしている。小さな体に、全力照射は重すぎる。
「ティック、もういい。ありがとう」
「まだ——まだいけるよー……」
翅がふらついている。光の粉がまばらになっている。
「もういい。十分だった」
ティックがアカリの肩に落ちるように降りた。小さな体が肩で上下している。息が荒い。翅がぐったりと垂れている。十秒の全力。ティックの全力。
光が消えていく。ティックの光の粉が空中から落ちていく。四つのLEDだけが、薄暗く残っている。
変身は——壊れていた。
LEDは八個死んでいる。光の粉は十秒しか持たなかった。装甲板は傷だらけ。肩アーマーは銅線で縛ってある。グローブに穴が開いている。マントもない。ブーツもない。スカートもない。衣装の七割はあの世界のホームに置いてきた。
三割の衣装。三分の一のLED。十秒の光の粉。
壊れかけの変身。
ステッキを握った。LEDは死んでいる。スピーカーは沈黙している。ボタン電池はとっくに空だ。ただのプラスチックの棒。歯車のエンブレムだけが、朝の光を反射して銀色に光った。
でも。
でも——ステッキを握る手は震えていなかった。
深呼吸した。腹の底から息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
胸を張った。顎を引いた。背筋を伸ばした。ベルの立ち方。変身後のベルの姿勢。メガネをかけた冴えない女子高生が、メガネを外して装甲を纏って、別人のように立つ瞬間の——あの姿勢。
スマホをポケットから出した。画面を点けた。18%。
画面の光が顔を照らした。LEDの代わりに。ステンドグラスの色と、スマホの白い光が混ざって、アカリの顔に落ちた。
16%。画面を点けただけで2%——いや、ここまでの移動と待機で減った分だ。
ステッキを前に突き出した。
叫んだ。
「ロードアウト——アイアン・ブート!」
声が広場に響いた。大聖堂の石壁に反響した。鐘楼に届いて、戻ってきた。
完璧な変身ではなかった。光は足りない。装甲は欠けている。LEDは死んでいる。スカートもブーツもマントもない。旅装束の上から傷だらけの装甲板を巻いただけの、壊れかけの聖女。
でも——声だけは。
声だけは、壊れていなかった。
広場が静まった。信徒も騎士も修道士も。全員が、壊れかけの聖女を見ていた。
「……開けてください」
静かに言った。大聖堂の扉に向かって。
扉が——開いた。
ステンドグラスの光が、扉の隙間から溢れ出した。赤と青と金色。光の帯がアカリの足元に伸びた。
光の奥に、影がひとつ。
白い法衣。金糸の肩章。白い髪。
グレゴリウスが、大聖堂の中に立っていた。




