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第57話「壁の名前」

 ——この場面を、アカリは知らない。


 レオンも知らない。ティックもザインもバルトロメイもイレーネも知らない。


 知っているのは、壁だけだ。


          ◇


 聖都ゴルトリヒト。大聖堂。


 夜。礼拝堂の蝋燭は消えている。ステンドグラスは暗い。月の光だけが高窓から差し込んで、石の床にぼんやりとした四角を描いている。


 側廊に、人影がひとつ。


 グレゴリウスだった。


 白い法衣。金糸の肩章。大司教の正装ではない。夜着の上に法衣を羽織っただけの、私的な姿。髪が乱れている。眠れなかったのだろう。


 グレゴリウスの髪は、もう金色ではなかった。三十年前、若い司祭だった頃は蝋燭の光に映える金髪だった。マナの肩に手を置いたあの夜は、まだ若い男の髪だった。今は白い。全部ではない。金の中に白が混じっている。蝋燭を灯していないから、月の光の下では全体が白く見える。


 側廊の壁の前に立っていた。


 壁に名前が刻まれていた。


 石の壁面に、小さな文字がびっしりと並んでいる。名前。人名。何十もの。横書きで、等間隔で、一人ずつ。名前の横に、数字がある。年齢だろう。


 サキの暴走で死んだ人々の名前だった。


 二十年前。中継ノードのバイパスが暴走し、回路のネットワークを逆流し、聖堂の床を割り、柱を崩し、信徒を巻き込んだ。数十人が死んだ。その名前が、ここに刻まれている。


 グレゴリウスの右手が伸びた。


 壁に触れた。指先が、一番上の名前をなぞった。ゆっくりと。文字の凹凸を、指の腹で読んでいる。目ではなく、指で。


 次の名前。その次の名前。一つずつ、指がなぞっていく。


 名前は三十七あった。


 三十七人。バイパスの暴走で死んだ三十七人の信徒。老人もいた。子供もいた。年齢の数字がそれを教えている。六十八。五十四。四十二。三十九。十一。七。


 七。


 グレゴリウスの指が止まった。


 七歳の名前の上で。


 長い時間、指が動かなかった。月の光が窓から差し込む角度が変わるくらい、長い時間。


 「……すまない」


 声が出た。


 小さな声。大聖堂の石壁に吸い込まれて、反響しない。誰にも聞こえない。壁だけが聞いている。


 「お前たちを守るために——儂は、次の聖女を——」


 言葉が途切れた。


 グレゴリウスの額が壁に当たった。石の壁面に、白い髪の額を押しつけた。手は壁に添えたまま。七歳の名前の横に。


 肩が震えていた。


 嗚咽を堪えている。堪えきれていない。喉の奥から漏れる音は、声ではなかった。もっと深い場所から出ている音。三十年分の堰が、少しだけ緩んでいる音。


 グレゴリウスはマナの最期を見た。


 三十年前。台座の上で光に包まれていく少女。セーラー服。十六歳。「グレゴリウスだけだよ。聞いてくれるの」と言った少女。膝をついて、駆け寄って、涙の跡が三十年経っても消えない——あの夜。


 グレゴリウスはサキの暴走を見た。


 二十年前。聖堂が崩壊する轟音。瓦礫の中の悲鳴。そして自分の聖堂の壁に、三十七の名前を刻ませた日。


 グレゴリウスはユウの最期を見た。


 十年前。カイルの絶叫。白い光に包まれる十六歳の少女の、あの笑顔。「大丈夫だよ」。大丈夫ではなかった。何も大丈夫ではなかった。


 三人を見送った。三十年で。


 一人目は理解できなかった。聞いたが、わからなかった。数式の意味が。


 二人目は止められなかった。暴走が起きたとき、グレゴリウスにできたことは何もなかった。三十七の名前が増えた。


 三人目はただ見ていた。カイルの隣で。もう何もしないと決めて。もう二度と誰にも回路に触らせないと決めて。それが——守ることだと信じて。


 そして四人目が来た。


 コスプレの衣装を着て。スマホを持って。「バグを直す」と言って。


 グレゴリウスの額が壁に押しつけられたまま、唇が動いた。


 「あの娘は——マナと同じことを言っている」


 同じことを。回路にバグがある。直せば犠牲は要らない。聖女が死ぬ必要はない。


 マナもそう言った。三十年前。グレゴリウスには理解できなかった。サキもそう試みた。暴走した。三十七人が死んだ。


 「また——同じことが」


 声が震えた。


 「また失敗すれば——また壁に名前が増える。またマナのように——サキのように——ユウのように——」


 壁から額を離した。目が赤かった。涙の跡が頬にある。しかし目の奥に——恐怖だけではないものがあった。


 迷い。


 三十年間、「触らせない」が正しいと信じてきた。犠牲を受け入れるのが、名前を刻むのが、大司教の務めだと。しかし四人目が来て——「偽物」だと言われている娘が——先代三人の遺産を掘り起こしている。


 あの娘は泣いていた。マナの遺品の前で。サキの動画の前で。ユウの写真の前で。


 グレゴリウスは知らない。アカリの旅路を見ていない。報告でしか知らない。しかし——泣いていた、という報告は届いている。偽物の聖女が、先代の遺品の前で泣いた、と。


 「……偽物が、なぜ泣く」


 壁に問うた。壁は答えなかった。三十七の名前が、月の光の中で沈黙していた。


          ◇


 グレゴリウスが側廊を離れた。


 法衣の裾が石の床を擦る音。足音が遠くなっていく。


 壁だけが残った。


 三十七の名前。月の光。沈黙。


 明日、大聖堂の鐘が鳴る。


 四人目の聖女が、この壁の前に立つ。偽物の聖女が。コスプレの聖女が。18%のスマホを握った、十七歳の女の子が。


 壁は何も言わない。壁は三十七の名前を抱えて、ただそこにいる。三十七の重さを、石の中に閉じ込めて。


 明日が来る。


 鐘が鳴る。

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