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第56話「接地点の矛盾」

 朝になった。


 洞穴の入口から差し込む光が、壁面を照らしている。焼け焦げたバイパスの跡が、朝の光の中で黒く浮き出ている。昨日まではただの失敗の痕。しかし今朝は——証拠に見えた。ザインが一晩かけて読み取った、証拠。


 立ち上がった。


 膝が痛かった。一晩中同じ姿勢で蹲っていたから。背中が固まっている。首が動かない。右手の指先の火傷が、朝の冷気に触れてひりひりした。


 立てた。ザインが言った通り。


 焚き火の前に出た。全員がいた。ティックが——岩の上から飛び立って、アカリの近くまで来たが、肩には止まらなかった。一メートルほど離れた場所で、空中に留まっている。翅が震えている。近づきたいのに、昨夜の「触らないで」がまだ残っている。


 「……ティック」


 声が掠れていた。一晩喋っていなかったから。


 「ごめん。昨日はごめん」


 ティックの大きな目が揺れた。三秒。


 翅が——ばたついた。光の粉がぱっと散った。


 「アカリちゃーん!」


 肩に突っ込んできた。小さな体が肩にしがみついた。翅が耳の横でぶんぶん鳴った。光の粉が髪に降った。


 「心配したんだよー! ティック、ずっと心配してたんだよー!」


 痛い。翅が頬に当たっている。でも——振り払わなかった。


 「……ありがとう」


 ティックが肩にしがみついたまま、小さな手でアカリの首筋を叩いた。ぺちぺち。拳骨のつもりだろう。力がないから全く痛くない。


 「もう触らないでとか言わないでよー!」


 「……言わない」


 ティックの重さが肩に戻った。小さくて軽い、いつもの重さ。


          ◇


 ザインが焚き火の前に立った。


 全員が集まっている。アカリ。レオン。バルトロメイ。ティック。イレーネ。


 ザインの顔は疲れていた。一晩寝ていない。目の下に影がある。白い外套の裾が汚れている。膝をつき続けた跡。しかし——目だけが違っていた。疲労の中に、明確な光がある。見つけた人間の目。


 「話す」


 短い前置き。ザインが羊皮紙を広げた。昨夜書いた数式と、焼けた回路の模写図。


 「結論から言う。お前の技術は間違っていなかった」


 アカリの目が見開かれた。


 「配線の精度、接続の角度、素材の選定。全て許容範囲内だった。お前の手は正しく動いた。三秒間回路が安定したのがその証拠だ」


 三秒間。あの三秒間は——正しかった。


 「ではなぜ逆流したか」


 ザインが壁面を指した。焼け焦げた接合部の、さらに上流。


 「問題はここだ。接地点」


 接地点。回路の余剰電流を地面に逃がすための点。安全弁。


 ——要するに、風呂の排水口だ。お湯が溢れそうになったら、ここから抜く。排水口の位置が悪ければ、お湯が逆流する。


 「マナの回路図では、接地点はこの位置に設定されている」


 ザインが壁面の一点を指した。バイパスの入力点から上流に十五センチ。導線の溝の分岐点。


 「理論的にはこの位置で正しい。数式上、最も効率的な放出角度が得られる。マナの計算は正確だった」


 「じゃあ……何が」


 「しかし」


 ザインの指が、接地点の周辺をなぞった。


 「この位置には、実装上の問題がある。導線の溝がここで急角度に曲がっている。理論上は直線として扱える角度だが、実際の回路では——この曲がりで乱流が発生する。魔力の流れに微小な渦が生じる。その渦が、バイパスからの戻り電流と干渉して——逆流を引き起こす」


 ティックが首を傾げた。「らんりゅうー?」


 アカリが答えた。口が勝手に動いた。技術の話になると早口になる癖。


 「川を想像して。まっすぐな川は水がきれいに流れるでしょ。でも急カーブがあると、そこで渦ができる。渦が下流の流れとぶつかって——水が逆流する。それが起きた」


 バルトロメイが低く唸った。「……急な曲がり角で馬が暴れるのと同じか。地図上はなだらかに見えても、実際の道は違う」


 「そう。地図と道は違う。設計図と回路も——違う」


 アカリは壁面を見た。ザインが指す場所。導線の溝が、確かに急角度で曲がっている。ユウの写真でも見えていた。しかしそれは「回路の形状」であって「問題」には見えなかった。


 「マナの回路図は、この曲がりを無視している。地図上では直線に見える道を、本当に直線だと思って計算した。理論家としては正しい簡略化だ。しかし——」


 ザインが振り返った。アカリを見た。


 「実際に配線する人間にとっては、致命的な省略だ」


 マナは理論家だった。


 数式を書いた。回路図を描いた。変数を定義した。しかし——一度も自分の手で配線したことがなかった。銅線を切ったことがなかった。接点を圧着したことがなかった。


 理論の上では「ほぼ直線」と見なせる角度が、実際に金属導線の中で魔力が流れると渦を生む。地図を引く人にはわからない。その道を実際に歩いた人間にしかわからない。


 「マナが配線を知っていたら、この接地点の位置をずらしていただろう。三センチ下流に。曲がりの影響を受けない位置に」


 たった三センチ。


 「サキも同じ失敗をした。サキはマナの回路図を見たことがない。独立に同じ位置に接地点を設定した。なぜか。この位置が理論的に最適だからだ。理論が指し示す最適解が、実装上の最悪解だった」


 三十年前、マナが理論で設定した接地点。二十年前、サキが独立に選んだ接地点。十年後、アカリがマナの設計図通りに組んだ接地点。


 三人が三十年かけて、同じ落とし穴に落ちていた。


 「お前は——マナの回路図を信じてそのまま組んだ。マナの設計に間違いはないと信じて。だから逆流した」


 アカリの手が震えた。しかし今度は——恐怖ではなかった。


 「……私の手のせいじゃなかった」


 「お前の手は正しく動いた。渡された設計図に問題があったのだ」


 ザインの声に、微かな苦さがあった。理論家が、理論の限界を認める苦さ。マナが理論家であったがゆえに犯した間違いを、同じ理論家であるザインが指摘している。


 「では——」


 アカリの声が震えた。恐怖ではなく、別のもので。


 「接地点を三センチずらせば——」


 「バイパスは機能する」


 ザインの即答。


 「理論は正しい。パラメータも正しい。お前の技術も正しい。唯一間違っていたのは接地点の位置だけだ。三センチずらせば——急カーブを避けられる。渦は生まれない。逆流は起きない。バイパスは——設計通りに動く」


 三センチ。


 たった三センチの修正で。マナの三十年と、サキの二十年と、ユウの十年が——報われる。


 「直せる……?」


 声が裏返った。


 「私の理論とお前の手があれば」


 ザインが言った。低い声。しかし確信に満ちた声。


 希望だった。


 焼け焦げた洞穴の中で。18%のスマホを握りしめて。火傷の指で。それでも——希望が見えた。


 しかし、ザインの表情が曇った。


 「だが——その前に、片付けるべきことがある」


 「……片付けること?」


 「教団だ」


 ザインの目が鋭くなった。


 「聖陣の本体にバイパスを組むには、大聖堂に入る必要がある。回路の中枢は聖都の地下にある。教団の管轄だ。大司教の許可なしに聖陣に触れることはできない」


 グレゴリウス。


 二十年前、サキの暴走を経験した大司教。「神の設計に欠陥はない」と言い続けてきた人。もう二度と誰にも回路に触らせないと決めた人。


 その人に——「もう一度やらせてください」と言わなければならない。


 「……大司教は許可しないよ。サキの暴走を知ってるなら——絶対に」


 「だからお前が説得するのだ」


 ザインが腕を組んだ。


 「理論と証拠を揃えて、大司教の前に立つ。失敗の原因が判明したこと。修正方法が明確であること。お前の技術が信頼に足ることを——証明する」


 証明。


 18%のスマホで。火傷の手で。工業高校二年生の技術で。


 百歩譲って技術は証明できるかもしれない。しかしグレゴリウスの恐怖は——理屈では溶けない。あの人が恐れているのは、理論の正しさではない。また誰かが死ぬことだ。


 「……ハッタリが必要だね」


 呟いた。自分で言って、自分で驚いた。ベルの台詞ではなかった。自分の言葉だった。


 ザインが薄く笑った。初めて見る表情だった。


 「ハッタリは理論家の専門外だ。そこはお前に任せる」


 アカリはスマホを確認した。18%。


 18%で、大司教と対決する。


 三十年分の証拠と。二十年分の教訓と。十年分の記録と。


 ——そして、工業高校二年生のハッタリで。

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