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第55話「疑いの質」

 夜明け前。


 アカリはまだ壁際で蹲っている。目は開いている。眠れない。サキのビジョンが瞼の裏に残っている。聖堂の床が割れる音。悲鳴。サキの「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」。


 焚き火がまだ燃えていた。誰かが薪を足し続けている。


 焚き火の明かりの中で——イレーネが書いていた。


          ◇


 いつから書き始めたのだろう。


 ショートの直後、イレーネはペンを浮かせたまま止まっていた。書けなかった。しかし今——ペンが動いている。紙面の上を滑っている。速い。いつもより速い。迷いのない筆致。


 何を書いているのだろう。


 アカリの位置からは見えない。暗い壁際。焚き火から離れている。イレーネの手帳の文字は読めない。


 しかしイレーネの顔が見えた。微笑んでいない。眉が寄っている。唇が引き結ばれている。怒っているのではない。困っている。何かに困っている。自分自身の思考に困っている人間の顔。


 ペンが止まった。


 イレーネがペンを持ったまま、天井を見上げた。数秒。何かを考えている。そしてまたペンが動き始めた。


 書いて。止まって。天井を見て。また書く。


 その繰り返し。


 イレーネが書けなくなっているのは——「聖女は偽物である」という結論ではない。その結論はとっくに出ている。イレーネは最初からアカリを偽物だと確信していた。


 書けなくなっているのは、その先だ。


 偽物だとして——なぜ。


 偽物の聖女が、なぜ三人の先代の遺品の前で泣くのか。偽物の聖女が、なぜ三十年分の数式を解読しようとするのか。偽物の聖女が、なぜバイパスの失敗で蹲るのか。


 偽物なら、演技すればいい。泣く必要もない。失敗して傷つく必要もない。聖女のふりを続けて、教団に守られて、生き延びればいい。


 なのに——この女は本当に苦しんでいる。


 イレーネのペンが、また止まった。


 長い沈黙。


 ペンが動いた。一行だけ。短い一行。書いて、ペンを手帳に挟んで、手帳を閉じた。


 何を書いたのかは——アカリにはわからなかった。


          ◇


 洞穴の入口。


 レオンが立っていた。外を向いている。夜明け前の空。星が薄くなり始めている。東の空が、わずかに白い。


 アカリが見ているのに気づいたのか——いや、気づいていないだろう。暗い壁際のアカリは見えないはずだ。レオンは一人で立っている。


 レオンの手が——剣の柄にあった。


 握っている。添えているのではない。握りしめている。指が白くなるほど。


 ユウの最期を知った夜、柄から指一本分離れていた手が、今はきつく握りしめている。後退している。また剣に縛られている。


 ——違う。


 よく見た。レオンの手の震えが、これまでと違った。介錯の震えではなかった。もっと粗い振動。もっと大きい。怒り。


 レオンが怒っている。


 低い声が聞こえた。独り言。アカリに向けたものではない。自分自身に向けた——いや、この場にいない誰かに向けた言葉。


 「……なぜだ」


 短い。しかし重い。


 「なぜ——こんなものが存在する」


 こんなもの。何を指しているのか。


 封印の儀式。聖女のシステム。十年ごとに少女を召喚して、光にして、消す仕組み。三十年前にマナを殺し、二十年前にサキを殺し、十年前にユウを殺した仕組み。


 そしてアカリを——殺そうとしている仕組み。


 「十七の女がこの重荷を背負う道理が——どこにある」


 十七。アカリの年齢を、レオンが口にした。


 レオンはアカリの年齢を知っている。いつ知ったのかはわからない。でも——知っていた。十七歳。工業高校二年生。コスプレが趣味で、アジシオを振って、メガネを拭いて、回路の前で早口になる、十七歳の女の子。


 レオンの手が震えている。剣の柄を握りしめたまま。怒りで。


 怒りの矛先が——変わっていた。


 これまでレオンの手は、介錯の重圧で震えていた。聖女を殺す義務の重さで。しかし今夜は違う。殺す義務への恐怖ではなく、殺すシステムそのものへの怒り。


 レオンの怒りが、アカリではなく、教団に向かっている。


 「カイルも……こうだったのか」


 カイルの名前。ユウの護衛騎士。介錯の剣を握って泣いた男。


 「カイルもこの剣を握って——十六の子供の前に立って——」


 声が途切れた。レオンの顎が歪んだ。唇を噛んでいる。カイルが噛んでいたのと同じ場所を。


 レオンが深く息を吸った。吐いた。肩が上下した。


 もう一度吸った。吐いた。


 手が——柄から離れた。


 離れて、拳を握った。拳のまま、体の横に下ろした。剣から離れた手が、空中で拳を作っている。


 介錯ではなく。


 怒りの拳。


 初めてだった。レオンの手が、剣以外の形を作ったのは。


          ◇


 焼けた回路の前で、ザインが動いていた。


 一晩中。ずっと。


 膝をついて、壁面に顔を近づけて、指先で導線を辿って。羊皮紙に数式を書いて、消して、書き直して。蝋燭の残りを壁面に近づけて、焦げた接合部を照らして。


 全員が止まっている夜に。アカリが蹲り、ティックが翅を畳み、レオンが怒り、イレーネが困惑し、バルトロメイが沈黙している夜に。


 ザインだけが——答えを探し続けている。


 理論家の矜持。自分の理論が間違っていないなら、間違いは別の場所にある。それを見つけるまで止まらない。止まれない。


 ザインの指が壁面を辿っている。マナの数式を。三十年前に理論家が紙の上で描いた回路図を、石の壁面に転写したものを。指先が数式の行間を読んでいる。ザインにしか読めない行間を。


 唇が動いた。


 「……惜しいな」


 誰にも聞こえない声。アカリにも聞こえない。壁だけが聞いている。


 「ここだ。ここさえなければ——あと三センチだ。お前は、あと三センチで正解だった」


 三十年前の理論家に向けた言葉。非難ではなかった。怒りでもなかった。同じ高みに立つ者だけが発せる声だった。マナの数式の精度を正確に理解できる人間が、その数式のたった一箇所の省略を見つけたときの——敬意と、惜しみ。


 「配線を知っていたら——お前なら、気づいていた」


 指が、接地点の位置で止まった。


 「……見つけた」


 呟きが聞こえた。


 小さな声。しかし——夜明け前の洞穴に、はっきりと響いた。


 ザインの目が光っていた。蝋燭の反射ではない。発見の光。理論家が矛盾を解いた瞬間の目。


 ザインが立ち上がった。羊皮紙を握っている。壁面から離れて、焚き火のほうに向かって歩き始めた。


 全員が、ザインを見た。


 アカリも。壁際から。蹲ったまま。顔だけ上げて。


 ザインは焚き火の前を通り過ぎた。アカリのほうに来た。壁際の暗がりに。蹲っているアカリの前に。


 立ち止まった。


 見下ろしている。白い外套。蝋燭の残りを左手に。右手に羊皮紙。


 「——朝になったら話す。立てるようになっておけ」


 それだけ言って、背を向けた。


 冷たい声だった。しかし——「立てるようになっておけ」。


 立てることを前提にしている。まだ終わっていないことを前提にしている。


 ザインが何かを見つけた。


 夜明けの光が、洞穴の入口から差し込み始めていた。

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