第54話「20年前の暴走」
眠ったのか、気を失ったのかわからなかった。
壁に背を預けたまま、意識が沈んでいった。バルトロメイの呼吸の音が遠くなった。焚き火の光が薄くなった。指先の火傷のじんじんが——消えた。
代わりに、別の場所が見えた。
◇
同じ洞穴だった。
同じ壁面。同じ回路。同じ結節点。しかし——新しい。腐食が少ない。緑青がまだ薄い。導線の銅色が、ところどころ残っている。十年分だけ新しい。
二十年前。
洞穴の中に人がいた。
少女だった。
ブレザーの制服。チェックのスカート。膝上丈。ネクタイを緩く結んでいる。くるぶし丈のソックス。ローファー。スクールバッグが地面に投げ出されていて、キーホルダーが三つ四つじゃらじゃらと散らばっている。
サキだった。
動画で見た顔。でも動画よりも——近い。画素の粗さがない。QVGAのブロックノイズがない。生身のサキが、目の前にいる。
目の下に隈がある。三本目の動画のサキ。泣いた後の顔。でも今は泣いていない。目が光っている。何かに取り憑かれたような目。二本目の動画で回路のバグを語っていたときの目。
サキの手が動いていた。
壁面の回路に、何かを取りつけている。銅線ではない。この時代の素材。金属の細い棒。鋳造品。サキの手作りではない——誰かに作らせたのだろう。教団の鍛冶師か。形が整いすぎている。
バイパスだ。
サキがバイパスを組んでいる。アカリと同じことを。同じ場所で。同じ回路に。
隣にバルトロメイがいた。
若い。今より二十年分若い。髪がまだ黒い。体が大きい。鎧が新しい。しかし顔は——今と同じ種類の顔をしていた。心配している顔。サキの手元を見ている目。何もできない大きな手。
「サキ……本当にやるのか」
バルトロメイの声が若い。低いが、今ほど枯れていない。
「やる。やらなきゃ意味ないじゃん」
サキの声。動画で聞いた声。しかし動画よりも——鮮明。生きている声。苛立ちと決意が混じった十七歳の声。
「冷却系のバグは見つけた。理論もある。でもあの偉い人たち、全然聞いてくんない。『神の設計に欠陥はない』って。は? バグがあるから周期が短くなってんでしょ? 放っとけば次も、その次も、同じことの繰り返しだよ?」
サキの手が壁面で動いている。金属の棒を導線の溝に差し込んでいる。手つきが——荒い。アカリのような精密さがない。工具がない。精密ドライバーもニッパーもテスターもない。サキの道具はガラケーだけだった。理論は見つけたが、実装する技術がなかった。
でもサキはやった。技術がなくてもやった。教団が聞く耳を持たないから。自分でやるしかなかったから。
「バルトロメイさん、ここ押さえてて」
金属棒の接合部をバルトロメイの太い指が押さえた。サキが別の棒を取り出して、角度を調整して——。
角度。
アカリはビジョンの中で、サキの手元を見ていた。接続角度を。
——ずれている。
マナの理論では変数θは三十七度。サキはその理論を知らない。マナの数式を見たことがない。サキは独自に定常リーク理論を見つけたが、バイパスの最適角度までは導出できていなかった。
サキの接続角度は——目測だった。感覚で決めていた。
「……こんくらいかな」
こんくらい。
十七歳の女子高生の「こんくらい」で、魔力回路のバイパスを組んでいる。理論はあるが数値がない。数式が書けないから。関数電卓がないから。
マナには数式があった。でも実装する手がなかった。
サキには実装する意志があった。でも数式がなかった。
どちらも——半分だった。
「よし。これでいいはず」
サキが壁面から一歩退いた。バイパスが壁に取りつけられている。金属棒が二本、導線の溝を橋渡ししている。接地点——。
接地点。
アカリの目が、サキのバイパスの接地点を見た。
——マナの回路図と同じ位置だ。
マナの設計図に記された接地点。サキが独立に選んだ接地点。二人が別々の時代に、別々の方法で、同じ場所に接地点を設定した。同じ間違いを。
「いくよ」
サキがバルトロメイを見た。バルトロメイが頷いた。
サキがバイパスの起動点に手を触れた。
回路が光った。
青い光。導線に魔力が流れた。バイパスを通って——。
一秒。安定。
二秒。安定。
三秒——。
同じだった。
三秒目に波形が崩れた。アカリには見えた。サキには見えなかった。周波数分析アプリがないから。マイクがないから。波形の変化を捉える道具がないから。
サキが笑った。「通った! バルトロメイさん、通ったよ!」
三秒目。まだ暴走が始まっていない。サキの目には成功に見えている。バイパスが光っている。魔力が流れている。理論通りに——。
四秒目。
光が強くなった。
五秒目。
光が——強すぎた。
導線の溝が白く発光した。金属棒が赤熱し始めた。接合部から火花が散り始めた。
「え——」
サキの声が変わった。笑顔が消えた。
六秒目。
逆流が始まった。バイパスから溢れた魔力が、壁面の回路を逆走した。導線の溝が次々と白く光っていく。入力点から上流に向かって。支線から——本線に向かって。
「止まって——止まってよ!」
サキが叫んだ。金属棒を引き抜こうとした。手を伸ばした。
金属棒が白熱していた。触れた瞬間——。
「あっ——!」
火傷。アカリの指先の火傷とは比較にならない。サキの掌が、高温の金属に触れて、一瞬で水ぶくれができた。サキが手を引いた。
しかし金属棒は抜けなかった。魔力の流れが金属棒を壁面に固定している。磁力のように。引き剥がせない。
逆流が加速した。
壁面全体が光り始めた。天井の回路が光った。床の回路が光った。洞穴の奥——本線との接続点が——。
轟音。
低い振動。地響き。洞穴全体が揺れた。天井から石が落ちてきた。
「サキ! 伏せろ!」
バルトロメイがサキを抱えて地面に伏せた。大きな体でサキを覆った。天井の石がバルトロメイの背中に落ちた。鎧が衝撃を受け止めた。
しかし暴走は止まらなかった。
本線を逆流した魔力が、別の支線に流れ込んだ。この中継ノードだけではない。回路のネットワーク全体に波及し始めた。
ビジョンの視点が飛んだ。
聖堂だった。
聖都の聖堂。大きな建物。石造り。ステンドグラスの窓。祈りを捧げている人々。僧衣の信徒たち。
床の回路が——光った。
唐突に。何の前触れもなく。床に埋め込まれた導線が白く発光した。信徒たちが顔を上げた。「何事だ」。
床が割れた。
回路の溝に沿って、石の床に亀裂が走った。魔力が溢れ出した。白い光が亀裂から噴き出した。
柱が崩れた。天井の一部が落ちた。
悲鳴が——。
ビジョンの中で、悲鳴が重なった。何人もの。何十人もの。石と光と埃の中で。
視点が洞穴に戻った。
サキが立ち上がっていた。バルトロメイの腕を振り解いて。掌の火傷から血が滲んでいるのに。目が——壊れていた。何が起きたか理解してしまった目。自分がやったことが何を引き起こしたか、理解してしまった目。
「うそ……うそでしょ……」
ガラケーが地面に転がっていた。ストラップの魔法少女のキャラクターが、天井を向いていた。
サキの口が開いた。
「——ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
泣いていた。崩れ落ちながら。三本目の動画の「ごめんね」ではなかった。もっと壊れた声。もっと切迫した音。言葉になっていないのに言葉を繰り返している。
暴走はまだ続いていた。
サキが——壁面に向かって走った。
バルトロメイが止めようとした。「サキ! 来るな!」。しかしサキは振り払った。十七歳の細い体が、五十代の騎士の腕を振り払った。
サキがバイパスの接合部に両手を叩きつけた。白熱した金属棒に。火傷した掌で。
「止まれ……止まってよ……お願い……」
声が——変わった。
サキの体が光り始めた。
聖女の体。余剰魔力を吸収する体。封印の儀式で使われる、あの体。サキ自身が——ヒューズになった。暴走する魔力を、自分の体に引き受けた。
壁面の光が弱まり始めた。サキの体が光を吸い込んでいる。回路の暴走を、自分の命で止めている。
「サキ——! やめろ——!」
バルトロメイの絶叫。マナのフラッシュバックのグレゴリウスと同じだ。ユウのフラッシュバックのカイルと同じだ。聖女の隣にいた人間の、同じ叫び。
サキの体が透け始めた。光に侵食されていく。指先から。手首から。
しかし——途中で止まった。
暴走が収まった。サキが吸収した魔力で、回路が安定に戻った。支線の暴走が止まった。本線への逆流が止まった。
サキの体は——消えなかった。
両手が白く光っている。指先が半透明になっている。しかし体の芯は残っている。完全には光に飲まれなかった。暴走の規模が、封印の儀式ほどではなかったから。
サキが壁面にもたれかかって、ずるずると座り込んだ。両手がだらりと下がった。光が消えていく。指先の透明度が戻っていく。
しかし——サキの顔が。
白い。血の気がない。唇が紫色。目が虚ろ。命を削った人間の顔。
バルトロメイが駆け寄った。サキを抱えた。「サキ! サキ!」。
サキの唇が動いた。
「……何人」
声がかすれていた。
「何人、死んだ」
バルトロメイが答えられなかった。
サキの目から涙がこぼれた。
「……ごめんね」
三本目の動画と、同じ言葉。同じ声。同じ涙。
あの動画は——この後に撮られたのだ。
暴走を起こし、人を殺し、自分の命を削って止めた後。傷だらけの手で。ガラケーを持って。カメラに向かって。「ごめんね」。
あの動画の「ごめんね」は——誰に向けた言葉だったのか。
バルトロメイに。死んだ信徒に。次に来る聖女に。自分自身に。
全部だ。全部に向けた「ごめんね」だった。
◇
目が覚めた。
洞穴。壁際。暗い。隣にバルトロメイ——二十年後のバルトロメイ——が座っている。目を閉じている。寝息。
スマホは触らなかった。18%は変わっていないはずだ。
体が震えていた。サキのビジョンの余韻。両手が——じんじんしている。火傷の指だけではない。掌全体が。サキの掌の痛みが、ビジョンを通じて残っている。
「……だから」
呟いた。
「だからグレゴリウスは保守的になったんだ」
聖堂崩壊。数十人の死。バイパスの失敗が引き起こした惨劇。サキの暴走。サキの「ごめんね」。
グレゴリウスはそれを見たのだ。あるいは——報告を受けたのだ。自分が管理する教団の聖堂で、自分が召喚した聖女が暴走を起こし、信徒が死んだ。
「神の設計に欠陥はない」。あの言葉は——信仰ではなく、恐怖だったのかもしれない。
もう二度と、誰にも回路に触らせないための。
もう二度と、同じことが起きないための。
臆病ではなく——経験知。
バルトロメイの寝顔を見た。二十年前、サキを抱えて「やめろ」と叫んだ顔が、今は穏やかに目を閉じている。胸元のガラケー。サキの遺品。「ごめんね」の声が閉じ込められた箱。
アカリは自分の掌を見た。火傷の指。サキと同じ手。同じ失敗を犯した手。
でも——アカリは生きている。サキも生き延びた。二人とも、あの暴走で死ななかった。
サキは命を削っても、死ななかった。暴走を止めた後も生きていた。三本目の動画を撮れるくらいには。「ごめんね」と言えるくらいには。
サキが最後に死んだのは——封印の儀式だ。暴走の後、教団に連れ戻されて、予定通りの儀式で、光になって消えた。
暴走で人を殺したことを「ごめんね」と言いながら。
その十年後にユウが来て。その十年後にアカリが来た。
同じバグ。同じ回路。同じ場所。同じ失敗。
三十年かけて、三人が同じ壁にぶつかっている。マナは理論を作れたが組めなかった。サキは組もうとしたが精度が足りなかった。アカリは理論も写真もデータもあったのに——三秒で焼いた。
何が足りないのか。
何を見落としているのか。
答えはまだない。でも——ザインが何か呟いていた。「接地点の——」と。
焼けた回路の前で、膝をついて、一晩中。
理論家だけが止まっていない。




