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第53話「誰も励まさない」

 時間が経った。


 どのくらい経ったかわからない。耳鳴りが少しずつ弱くなっていた。キーンという高い音が、キーという中くらいの音になり、キ……という低い音になり、やがて焚き火のぱちぱちという音が遠くから戻ってきた。


 世界が、少しずつ聞こえるようになった。


 聞こえるようになっても、誰も喋っていなかった。


          ◇


 焚き火を誰かが新しくしていた。洞穴の入口近く。さっきの焚き火の残りの場所ではない。焼けた回路から離れた場所に、新しい火がある。


 煙が洞穴の天井を這って、入口から外に出ていく。焦げた銅線の匂いが、少しだけ薄まっていた。新しい薪の匂いが混じっている。


 誰が焚き火を移したのだろう。


 顔を上げなかった。膝を抱えたまま。壁際。暗い場所。


 足音がした。重い足音。レオンではない。もっと重い。地面を踏みしめる音。革の鎧がかちゃりと鳴る音。


 バルトロメイだった。


 アカリの隣に来た。立ち止まった。


 座った。


 何も言わずに。アカリの右側に。壁に背を預けて。大きな体が石の壁にもたれる音。革の鎧がこすれる音。


 座っただけだった。


 何も言わなかった。「大丈夫か」と聞かなかった。「次がある」と言わなかった。「気にするな」と慰めなかった。


 ただ隣にいた。


 バルトロメイの息の音が聞こえた。深い呼吸。老人の呼吸。規則正しい。安定している。


 サキのときも——こうだったのだろうか。二十年前。サキが暴走を起こして、聖堂が崩壊して、数十人が死んで。サキが泣いていたとき。バルトロメイはサキの隣に座っていたのだろうか。何も言わずに。


 聞けなかった。聞く声が出なかった。


 バルトロメイの手が胸元に触れた。革紐。ガラケー。サキの遺品。いつものように、無意識に触れている。


 沈黙が続いた。


          ◇


 視界の隅で、ティックが見えた。


 洞穴の入口近く。焚き火から少し離れた岩の上。


 座っている。翅を畳んでいる。


 ティックが翅を畳んでいるのを見たのは、初めてだった。ティックは常に翅をばたつかせている。飛んでいなくても、止まっているときでも、翅が微かに振動している。それがティックの平常状態。


 今、翅が動いていない。体の横にぴたりと畳まれている。小さな体がさらに小さく見える。岩の上で丸くなっている。光の粉も出ていない。


 「触らないで」。


 アカリが言った言葉が、ティックをあの岩の上に追いやった。


 ティックの顔が見えた。横顔。大きな目が——下を向いていた。何かを見ているのではない。どこも見ていない。翅を畳んだティックは、翅のない虫に見えた。飛べない虫。


 ごめん、と言いたかった。声が出なかった。


          ◇


 焚き火の向こう側に、イレーネが座っていた。


 手帳が膝の上に開いている。ペンが右手にある。しかし——書いていなかった。ペン先が紙面から一センチ浮いている。浮いたまま止まっている。


 イレーネが書けない。


 あの人はいつも書いている。何があっても書いている。アカリが泣いても、レオンが剣を抜いても、ティックが叫んでも、イレーネのペンは動いていた。報告書。捜査記録。偽物の聖女の観察日誌。


 今、ペンが止まっている。


 イレーネの目が焚き火を見ていた。微笑んでいなかった。施設であの印章を握りしめた夜と同じ——素の顔。疲れた顔。修道服の下に何かを隠している人の顔。しかし今夜は隠すものが多すぎて、布が足りていないような顔。


 何を書けばいいかわからないのだ。


 「聖女は失敗した」と書けばいい。報告書なら。事実を記録すればいい。しかしイレーネのペンは「聖女は失敗した」の先に進めないでいる。なぜ。何が書けないのか。アカリにはわからなかった。でも——ペンが浮いていることだけは見えた。


          ◇


 レオンは洞穴の入口に立っていた。


 外を見ている。背中だけが見える。剣は鞘に入っている。腕を組んでいない。両手が体の横に下がっている。何もしていない手。


 見張りをしているのか。それとも——中を見ていられないのか。


 レオンの背中は何も語らなかった。しかし、いつもの背中より——狭く見えた。肩が内側に入っている。微かに。レオンの姿勢が崩れるのを見たのは初めてだった。


          ◇


 唯一、動いている人間がいた。


 ザイン。


 焼けた回路の前に張りついていた。


 膝をついて。顔を壁面に近づけて。指先で焦げた導線の溝をなぞっている。黒く変色した接合部を観察している。溶けたアルミ片の残骸を拾い上げて、光にかざしている。


 羊皮紙が足元に広がっていた。新しい数式が書かれている。いつ書いたのだろう。アカリが蹲っている間に。全員が沈黙している間に。ザインだけが計算を続けていた。


 「……おかしい」


 ザインの声が聞こえた。独り言。誰に向けたのでもない声。


 「理論は間違っていない。パラメータも範囲内だ。なのに三秒で逆流した。何かが——何かを見落としている」


 ザインの指が、壁面の導線を辿っている。バイパスの接続点から、上流に向かって。下流に向かって。回路の全体像を、指先で読んでいる。


 「接地点の——」


 呟いて、止まった。


 それ以上は聞こえなかった。ザインが何かに気づいたのか、気づきかけて止まったのか。わからなかった。


 でも——ザインだけが動いていた。


 全員が止まっている中で。アカリが蹲り、ティックが翅を畳み、レオンが背中を見せ、バルトロメイが隣に座り、イレーネがペンを浮かせている中で。


 理論家だけが、焼けた回路の前で膝をついていた。


          ◇


 焚き火が弱まっていた。


 誰も薪を足さなかった。レオンがいつも足していた薪を、今夜は誰も足さない。炎が小さくなっていく。洞穴が暗くなっていく。


 暗くなっていくのが——楽だった。見えなくなっていくのが。自分の手が見えなくなっていくのが。火傷の指が暗闇に溶けていくのが。


 誰も「大丈夫」と言わなかった。


 誰も「次がある」と言わなかった。


 誰も「頑張れ」と言わなかった。


 その沈黙が——嘘より誠実だった。


 大丈夫じゃない。次があるかわからない。頑張れる状態じゃない。全部本当のことだった。全員がそれを知っていた。知っていて、嘘をつかなかった。


 バルトロメイの呼吸が隣で聞こえていた。深い。規則正しい。老人の体温が、一メートル離れた場所から、かすかに届いていた。触れていない。声もない。ただ——いる。


 焚き火が消えかけた。


 足音がした。レオンだった。入口から戻ってきた。焚き火の前に屈んだ。薪を足した。


 炎が揺れた。少しだけ明るくなった。


 レオンはアカリを見なかった。薪を足しただけだった。そしてまた入口に戻った。


 それだけだった。


 それだけで——十分だった。

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