第52話「キーン」
キーン。
高い音が、頭の中で鳴っている。
ショートの瞬間の音——ばちん、という短い破裂音——が鼓膜に張りついて、そのまま高周波に変換されて、頭蓋骨の内側で反響している。止まらない。キーン。一定の周波数。減衰しない。
口が動いている。レオンの口が。何か言っている。聞こえない。キーンの向こうで、水の底で誰かが叫んでいるような、遠い振動だけが届く。
視界はある。目は開いている。洞穴の壁。焼け焦げたバイパスの跡。黒い煙の残り。レオンが目の前にいる。口が動いている。聞こえない。
手を見た。
右手。人差し指。中指。指先に赤い点。火傷。ショートの火花が跳ねた痕。小さい。五ミリくらいの赤い腫れ。水ぶくれにはなっていない。一度火傷。軽傷。
軽傷だった。
今回は。
——今回は。
もし本線の回路でやっていたら。もし支線ではなく聖陣の本体で同じことが起きていたら。火花ではなく、爆発だった。ショートではなく、暴走だった。
サキと同じだった。
二十年前。サキがバイパスを試みて、暴走して、聖堂が崩壊して、数十人が死んだ。
今回は支線だったから、火花で済んだ。指先の火傷で済んだ。誰も死ななかった。でも——。
もし本番で同じことをしていたら。
もしザインが「まず支線でテストしろ」と言わなかったら。
もしアカリが「理論は合ってる、いける」と過信して、いきなり本線に手を出していたら。
レオンが死んでいた。バルトロメイが死んでいた。ティックが死んでいた。ザインが死んでいた。イレーネが死んでいた。
自分の手で。自分の知識で。自分が組んだ回路で。
キーン。
耳鳴りが止まらない。耳鳴りの中で、思考だけが回っている。止まらない。止められない。
お父さんの作業場で、基板を焼いたことがある。中学二年のとき。お父さんの留守に、一人で練習していて、ハンダごてを当てすぎた。パターンが焼き切れた。焦げた匂い。お父さんが帰ってきて、焼けた基板を見て、何も言わなかった。怒らなかった。代わりに新しい基板を出して、「もう一回やってみろ」と言った。
あのとき焼けたのは基板だった。
今日焼けたのは——三人の聖女の遺産だった。
マナの理論で設計した。サキのデータで定量化した。ユウの写真で位置決めした。三十年分の蓄積を一本の銅線に込めて——三秒で焼いた。
基板は代わりがある。お父さんが新しいのを出してくれる。
三人の遺産に代わりはない。
銅線は焼き切れた。アルミ片は溶けた。素材が足りない。バッテリーが足りない。理論は合っているのに、なぜ逆流したのかわからない。原因不明のまま再試行すれば、同じことが起きる。同じ失敗を。同じ消費を。
18%で、もう一度失敗する余裕はない。
膝が折れた。
いつの間にか座り込んでいた。洞穴の床。冷たい石。膝が石に当たった痛みが、耳鳴りの向こうから届いた。遠い痛み。指先の火傷のほうが近い。
スマホを膝の上に置いた。画面は暗い。さっき再起動して18%を確認した。確認しただけだ。それ以上何もできなかった。
手が震えている。
右手。火傷の指。震えている。寒いからではない。恐怖。技術者の恐怖。自分の手が、自分の知識が、人を殺しかけたかもしれないという恐怖。
今回は支線だった。今回は火花だった。今回は火傷だった。
でも構造は同じだった。二十年前のサキと。
サキは泣いていた。動画の中で。「ごめんね」と言いながら。サキのバイパスは暴走して、人が死んで、サキ自身が命で止めた。
アカリのバイパスも——暴走した。三秒間だけ動いて、逆流した。支線の小さな回路だったから火花で済んだだけだ。
サキと同じ失敗をした。
サキは「ごめんね」と言った。アカリは——何も言えない。
「……役に立てなかった」
声が出た。自分の声が聞こえた。耳鳴りの中で、自分の声だけが骨伝導で届いた。
役に立てなかった。
「お前だけだ」とザインが言った。「手を動かして配線できるのはお前だけだ」と。その手が——失敗した。三秒で。
マナの理論を、組めなかった。
サキのデータを、活かせなかった。
ユウの写真を、無駄にした。
三人が命をかけて残したものを、アカリの手が壊した。
蹲った。膝を抱えた。額を膝に押しつけた。暗い。目を閉じなくても暗い。洞穴の中だから。焚き火の光が届かない奥まで、いつの間にか移動していた。壁際。一番暗い場所。
キーン。
まだ鳴っている。鳴り止まない。
耳鳴りの向こうで、ティックの声がした。遠い。小さい。
「アカリちゃ——」
何か言おうとしている。肩に降りてこようとしている。翅の振動が、耳ではなく肩の皮膚で感じられた。
「——触らないで」
言った。
言ってしまった。ティックに。初めて。ティックを拒絶する言葉を。
翅の振動が止まった。肩から離れていった。
ティックの顔は見なかった。見られなかった。額を膝に押しつけたまま。暗闇の中で。
誰かの足音が近づいた。重い足音。レオンの。
止まった。二歩手前で。
手が伸びてきた——気がした。影が動いた——気がした。しかしその手は、アカリに触れなかった。二歩手前で止まった。伸ばしかけた手が——下ろされた。
レオンが何かを言った。聞こえなかった。耳鳴り。
足音が離れた。
一人になった。
洞穴の暗い壁際で、膝を抱えて、18%のスマホを膝の上に置いて、焦げた匂いの中で、キーンという耳鳴りを聞きながら。
一人。
泣けなかった。涙が出なかった。マナの遺品を見つけたときは泣いた。サキの動画を見たときは泣いた。ユウのフラッシュバックで朝まで泣いた。でも今は泣けない。悲しいのではない。怖いのだ。自分の手が怖い。自分の知識が怖い。
工業高校二年生の技術で、三十年分の遺産を統合できると思った自分が——怖い。
キーン。
耳鳴りだけが、正直だった。




