第49話「お前だけだ」
ザインが地面に羊皮紙を広げた。
施設の前の空き地。焚き火を新しく起こして、その周りに全員が集まった。銀色の少女が消えた場所に、まだ空気の冷たさが残っている。
ザインが三枚の羊皮紙を並べた。左。中央。右。
「整理する」
乾いた声。感傷の余韻を許さない声。理論家の声。
「左。マナの数式」
左の羊皮紙には、びっしりと数式が書かれていた。ザインの筆跡。マナの数式を翻訳したもの。三十七枚の紙束から抽出した、冷却系バイパス回路の理論骨格。
「マナは理論を作った。封印の聖陣における冷却系のバグを特定し、バイパス回路の概念を設計した。しかし実測データがなかった。変数θ——余剰魔力の排出角度を決定できなかった。理論はあるが、数値がない」
——要するに、配管の角度だ。水を流すとき、パイプの曲げ角度を間違えると流れが悪くなる。マナはパイプの設計図を引いたけど、最適な角度を「実測」で確かめられなかった。
中央の羊皮紙を指した。
「中央。サキの定常リーク理論」
中央の羊皮紙は、ザインの筆跡とアカリの筆跡が混在していた。ザインが書いた数式の横に、アカリがカタカナで書いたメモがある。「テイジョウリーク」「ヒヤシケイ」「バイパスシュツリョク」。サキの動画の記憶を、アカリが口述し、ザインが数式に変換した。何夜もかけて。
「サキはマナと独立に同じバグを発見し、定常状態での微量漏洩を理論化した。マナの骨格にサキの定量データを代入すれば、漏洩量の推定が可能になる。しかし——サキの理論はアカリの記憶にしか残っていない。精度に限界がある」
ティックがアカリの肩から首を伸ばした。
「ねーねー。何の話してるのー?」
「えっと……封印が、ちょっとずつ壊れてるって話。蛇口が締まりきってなくて、ぽたぽた漏れてる感じ」
「ぽたぽたー?」
「そう。ぽたぽた。でもどのくらいの速さで漏れてるか、正確にはわからない。サキが動画で言ってたことしか手がかりがないから」
ティックが小さく頷いた。わかったのかわかっていないのか——たぶん、わかっていない。でもティックの「ぽたぽた」のおかげで、レオンとバルトロメイの顔が少しだけ柔らかくなった。
右の羊皮紙を指した。
「右。ユウの写真」
右の羊皮紙には数式ではなく、図が描かれていた。ザインが、ユウの写真を見ながら手で模写した聖陣の回路構造。導線の配置。結節点の座標。分岐点の角度。
「ユウは聖陣の全回路を写真で記録した。七百十二枚。この写真群から、導線の幅、深さ、交差角度を実測できる。変数θの導出に必要なパラメータが、ここにある」
三枚の羊皮紙が並んでいる。左。中央。右。三十年。二十年。十年。マナ。サキ。ユウ。
ザインの指が、三枚の羊皮紙を横断するように線を引いた。
「マナの理論骨格に、サキの定量データを代入し、ユウの実測パラメータで変数θを確定する。三つを統合すれば——バイパス回路の完全な設計図が得られる」
バルトロメイが腕を組んだ。太い眉が寄っている。
「……鍛冶で言えばこうか。マナが刀の設計図を引いた。サキが鋼の質を調べた。ユウが炉の温度を記録した。三つ揃えば——刀が打てる」
ザインが一瞬、バルトロメイを見た。「……大筋では合っている」
完全な。
その言葉の重さが、焚き火の煙と一緒にゆっくりと空に昇っていった。
「……本当に?」
アカリの声が小さかった。
「理論的には」
ザインの目がアカリを射抜いた。
「しかし設計図があっても、それを実際に組む人間がいなければ紙切れだ」
全員の視線がアカリに集まった。
レオン。灰色の目。何かを覚悟した目。
バルトロメイ。深い皺の奥の目。三十年分の記憶を持つ目。
ティック。大きな目。きょとんとしている。でも翅が震えている。
イレーネ。微笑み。しかし目が——アカリを測っている。
ザイン。白い外套。焚き火の光で影が揺れている。
「理論は私が補う」
ザインが言った。
「マナの数式の不足分は、私の理論体系で補完する。サキの記憶の精度不足も、推定値で埋める。回路の構造はユウの写真がある。パラメータの導出は私が行う」
バルトロメイが小さく頷いた。パラメータという言葉はわからないだろう。しかし「足りないものは私が埋める」という意志は伝わったらしい。
ザインが一歩、アカリに近づいた。
「だが——実際に手を動かして配線できるのは」
焚き火がぱちりと鳴った。
「この中で、お前だけだ」
静かだった。ザインの声が静かだった。いつもの苛立ちがない。皮肉がない。ただ事実を述べている。理論家が、理論の限界を認めている。自分にはできないことがあると。
「私は理論を作れる。しかし手で組めない。マナも同じだった。理論は作れたが、配線する手がなかった。三十年前、マナが一人で死んだのは——理論家が配線を知らなかったからだ」
マナの遺書の余白。「誰かがこの回路図を実際に組んでくれたら」。三十年前の理論家の願い。
「サキは理論の萌芽を見つけたが、数式にする能力がなかった。ユウは記録したが、分析する知識がなかった。三人とも——何かが足りなかった」
ザインの目が燃えていた。焚き火の反射ではない。
「お前には全部ある。理論を理解する基礎がある。回路図を読む目がある。そして——手がある。ハンダごてを握り、銅線を切り、接点を圧着する手が」
アカリは自分の手を見た。
右手。人差し指にハンダの焦げ跡。親指の爪の横に精密ドライバーの擦り傷。掌に銅線を握り続けた跡の赤い線。工業高校の二年間で作られた手。お父さんの作業場で育った手。
「……私にしか、できないの?」
声が震えた。嬉しくて震えているのか、怖くて震えているのかわからなかった。
「そうだ」
ザインの即答。
「マナの三十年。サキの二十年。ユウの十年。三人の聖女が残した遺産を、一本の回路に統合できるのは——この世界でお前だけだ」
焚き火が揺れた。風が吹いた。三枚の羊皮紙の端がめくれた。ザインが手で押さえた。
「ただし」
ザインの顔が険しくなった。いつもの険しさではない。もっと深い。
「理論は整合する。バイパスは——可能だ」
「可能」の後に、沈黙があった。
「しかし。試す前に確認すべきことがある」
ザインがアカリを見下ろした。
「お前の技術が本物かどうか。理論上の設計図を、実際に物理的な回路として組める能力があるかどうか。それを——実証しなければならない」
実証実験。
「聖陣の本体にいきなり手を加えるわけにはいかない。失敗すれば——二十年前と同じことが起きる」
サキの暴走。バイパスの失敗。回路の暴走。聖堂崩壊。数十人の死。
ザインの声が低くなった。
「まず、外縁の中継ノードでテストする。小規模な回路でバイパスを組み、通電させる。成功すれば——本番に進む。失敗すれば——」
言葉を切った。失敗の意味は全員がわかっていた。
アカリは立ち上がった。
膝は震えていなかった。さっきまでアドリブの余韻で震えていた膝が、今は——止まっていた。
「やる」
声が出た。震えていなかった。
「やらせてください」
ザインの目が細くなった。値踏みしている。理論家が実験者を値踏みしている。
「……いいだろう」
羊皮紙を丸めた。三枚を束ねて、紐で縛った。アカリに渡した。
「これがお前の設計図だ。マナの理論。サキのデータ。ユウのパラメータ。私の補完。全てがここにある」
羊皮紙の束は——重かった。紙の重さではない。三十年分の重さ。
アカリは束を両手で受け取った。胸に抱えた。
ポケットの中のスマホが、かすかに熱を持っていた。46%。その中にマナの回路図が三十七枚。ユウの写真が七百十三枚。サキの理論がアカリの記憶に。そしてザインの補完がこの羊皮紙に。
四人分の数学。四人分の記録。四人分の理論。
それを一本の回路に束ねる手が、アカリの手しかない。
◇
その夜、全員が静かだった。
焚き火を囲んで、それぞれの場所にいた。
ザインは離れた岩の上で、まだ計算している。羊皮紙に数式を書いては消し、書いては消し。検算を繰り返している。実証実験の前に、理論側でできることを全てやる。理論家の矜持。
ティックはアカリの膝の上で丸くなっている。寝息を立てている。翅がときどきぴくりと動く。夢を見ているのかもしれない。
バルトロメイは鎧を脱いでいなかった。目を閉じている。寝ているのか起きているのかわからない。胸元の革紐——サキのガラケー——に手を添えている。
イレーネは手帳を閉じていた。今夜は書かない。ペンを手帳に挟んだまま、焚き火を見ている。微笑んでいない。珍しく、素の顔をしている。素の顔は——疲れていた。
レオンはいつもの場所にいた。木に背を預けて、剣を膝に置いて。半眼。焚き火とアカリの間を、視線が行き来している。
アカリはスマホの画面を見ていた。輝度最低。ユウの写真をスクロールしている。回路の接写写真。一枚ずつ。構図を確認している。明日から——いや、実証実験の場所に着いたら、この写真を見ながら配線する。どの写真がどの位置の回路か。どの角度から撮られているか。ユウの目になって、回路を把握しなければならない。
七百十二枚の記録写真が、アカリの目になる。マナの数式がアカリの頭になる。サキの理論がアカリの知識になる。ザインの補完がアカリの設計図になる。
そしてアカリの手が、四人分の全てを、一本の銅線に変換する。
スマホを閉じた。46%。
レオンが——目を開けた。
「眠れないのか」
声が小さかった。二人の間にしか届かない声。
「……うん」
「明日からは歩く。中継ノードまで二日。寝ておけ」
命令ではなかった。護衛の指示でもなかった。ただの——心配。
「レオンは寝ないの」
「見張りだ」
「いつも見張りじゃん」
「いつもだ」
短い言葉の応酬。焚き火がぱちぱち鳴っている。
アカリは目を閉じた。閉じる直前に、レオンの手が見えた。剣の柄に置かれた右手。介錯の剣。その手が——昨日より少しだけ、柄から離れていた。指一本分。握っているのではなく、添えているだけ。
ユウの最期を知った夜の、レオンの手。
何も言わなかった。目を閉じた。
明日から、バイパスの実証実験が始まる。
成功すれば——聖女は死なずに済む。
失敗すれば——二十年前と同じことが起きる。
46%。この数字が、ゼロになる前に。




