第48話「アドリブ」
朝になっても、銀色の少女は消えていなかった。
施設の前の空き地。焚き火の残り灰。その向こうに、アカリと同じ顔をした銀色の影が立っている。夜通し同じ場所に。動かない。息をしない。ただ——アカリを見ている。
アカリが起き上がると、銀色の少女も起き上がる動作をした。アカリがメガネをかけると、銀色の少女もメガネをかける仕草をした。鏡。まだ続いている。
「解決策は」
ザインが焚き火の跡を挟んで座っていた。一晩中起きていたらしい。羊皮紙に何か書いている。
「あの存在は、お前の行動パターンを完全に模倣している。しかし模倣には原理的な限界がある」
「限界?」
「模倣は参照元がなければ成立しない。お前がまだやっていないことは、コピーできない」
昨夜、アカリ自身が気づいたことだった。「明日、何をするか。あんたには予測できない」。しかしそれは一瞬の空白を作っただけで、アリアを崩壊させるには至らなかった。
「問題は」ザインが続けた。「お前が何かを『する』瞬間、それは即座にコピー可能になる。行動は見えるからだ。発話も聞こえる。つまり——」
「やった瞬間にコピーされる」
「そうだ。先手を打っても、次の瞬間には追いつかれる。お前が勝つには——模倣そのものが成立しない行為が必要だ」
模倣が成立しない行為。コピーできない何か。
アカリはスマホを確認した。50%。考える時間にもバッテリーは減る。
◇
銀色の少女の前に立った。
三歩の距離。同じ顔が向かい合っている。銀色の少女はアカリが立つと同時に立った。同時に三歩歩いた。鏡像。
「ねえ」
銀色の少女が言った。アカリが言う前に。
「また考えてたでしょ。『ベルならどうする』って」
心臓が跳ねた。言い当てられた。——いや、コピーなのだから当然だ。アカリの思考パターンを模倣している。ピンチになると「ベルならどうする」と考える。それはもう何度も繰り返したパターン。
「第二話の影の魔獣は光に弱い。第七話の氷の結界は歌で溶かせる。第十二話の——」
銀色の少女がベルのエピソードを列挙し始めた。アカリの記憶にあるベルの全話を。
「全部知ってるよ。あなたが知ってることは、全部。ベルの台詞も、ベルの戦い方も、ベルの決め台詞も」
銀色の少女が右手を伸ばした。ステッキを握る仕草。手の中には何もない。でも構えだけは完璧。アカリがいつもやる、ステッキを前に突き出す構え。
「ロードアウト——」
アカリの声で。アカリの抑揚で。変身シークエンスの掛け声。
「——アイアン・ブート」
完璧なコピー。声の震え方まで同じ。第五話でお披露目のとき叫んだあの声と、同じ。
アカリは黙って聞いていた。
「ね。全部できるよ。あなたがやることは全部。だって全部、台本があるもの。ベルっていう台本が」
台本。
その言葉が、胸のどこかに刺さった。
——本当にそうだ。
影狼のとき、「ベルなら第二話」と思った。スライムのとき、「ベルなら第七話」と思った。サキのガラケーを蘇生するとき、「ベルなら道具を使う」と思った。全部——ベルの台本をなぞっていた。
ベルが言った台詞を借りた。ベルが取った行動を真似た。ベルが着ていた衣装を着た。
コスプレ。
最初から最後まで、コスプレだ。
銀色の少女が微笑んだ。アカリの顔で。しかしアカリが今浮かべていない笑顔を。
「だからさ。私がいれば十分でしょ? 台本通りにやるなら、コピーで——」
「——台本にないこと、言ってみようか」
声が出た。
自分の声だった。震えていた。でも——銀色の少女より先だった。
銀色の少女の口が止まった。
「台本にないこと」
オウム返し。でも一拍遅れた。アカリが言った後の、コピー。
アカリは一歩前に出た。銀色の少女も一歩前に出た。二歩の距離。
スマホを取り出した。画面を見た。ユウの写真が表示されたままだった。七百十三枚目。ピースサイン。
ベルはこの写真を知らない。
ベルはマナを知らない。サキを知らない。ユウを知らない。ベルは異世界の魔法少女だけど、現実の異世界で死んだ現実の女の子のことは知らない。ベルの台本には、関数電卓の裏のプリクラシールも、塗装の剥げたキャラストラップも、カメラバッグの奥のアクキーも、書かれていない。
ベルが言わなかったことを、言う。
口を開いた。
何を言えばいいかわからなかった。台本がないのだから。ベルの台詞を引用できない。自分の言葉を——持っていない。十七年間、推しの言葉を借りて生きてきた女の子に、オリジナルの台詞なんかない。
でも——借り物を、組み替えることはできる。
ベルの言葉と、マナの数式と、サキの涙と、ユウのシャッター音を、まだ誰も組み合わせたことのない順番で並べることはできる。
「——私は偽物だよ」
言った。認めた。銀色の少女が同時に口を開いたが——言葉が違った。アカリが自分を「偽物」と呼ぶパターンは、鏡のデータにはあった。でも次の言葉が——。
「コスプレの聖女。ベルの真似。ステッキの光はもう消えた。全部本当。あんたの言う通り」
銀色の少女がコピーしようとしている。しかし文の構造が予測できない。アカリ自身が次に何を言うか決めていないから。今この瞬間に、言葉を選んでいるから。台本がないから。
「でも——三十年前に電卓の裏にプリクラシールを貼った子がいた。二十年前にガラケーにキャラストラップをつけた子がいた。十年前にカメラバッグの奥にアクキーを隠してた子がいた」
銀色の少女の輪郭が揺らいだ。この情報を持っていない。アカリの「ベルの模倣パターン」にはない言葉。マナとサキとユウの遺品の記憶。鏡が参照できないデータ。
「全員——魔法少女が好きだった。私と同じ。推しがいた。変身に憧れた。でも、本物の魔法少女にされて、本物の光になって、消えた」
声が震えていた。泣きそうだった。でも止まらなかった。
「ベルなら何て言うかわかんない。台本にないから。でも私は——」
息を吸った。
「——修理する。この子たちが直そうとして直せなかったバグを。借り物の衣装で、借り物の言葉で、五十パーセントのバッテリーで。かっこ悪いけど。ベルみたいにかっこよくないけど」
銀色の少女が——崩れ始めた。
輪郭がぼやけている。顔がアカリの顔を保てなくなっている。目が歪んでいる。口が——言葉を形作ろうとして、できない。コピーする対象がない。アカリが今言っていることは、過去のどの発話パターンにも一致しない。台本にない台詞。即興。アドリブ。
「偽物でいい。直せるなら。偽物のまま、直す」
銀色の少女の体が砕けた。
鏡が割れるように。ぱきん、という乾いた音がして、銀色の破片が散った。光の粒になって、空気に溶けた。アカリの顔が、アカリの声が、アカリの仕草が——全部、破片になって消えた。
跡形もなかった。
足元にスマホが落ちている。画面のノイズが消えていた。ユウのピースサインが、きれいに表示されている。
48%。
膝から力が抜けた。座り込んだ。地面が冷たかった。
「……かっこ悪かったな」
呟いた。ベルの台詞じゃない。自分の感想。
ティックが肩に降りてきた。
「かっこよかったよー!」
「……嘘つき」
「嘘じゃないよー。ティック、今の全然わかんなかったもん。でもかっこよかったー」
わかんなかったのにかっこいいのか。それはもう感想であって評価ではない。でも——ティックの言葉は嬉しかった。
レオンが剣を鞘に戻した。何も言わなかった。しかし目が——少しだけ、違う色をしていた。灰色の中の、何か。
バルトロメイが太い腕を組んで頷いた。「うむ」。一語。それだけ。
イレーネが何かを書いていた。いつもの手帳。しかしペンの動きが——いつもより速かった。書くことが多いのか。書かずにいられないのか。
ザインが立ち上がった。羊皮紙を丸めた。焚き火の跡を踏み越えて、アカリの前に来た。白い外套が視界を塞いだ。見下ろされている。
「……偽物が、偽物の壁を越えた」
低い声だった。
「皮肉なものだ」
褒めているのか貶しているのかわからなかった。ザインの声にはいつも両方が混ざっている。でも——目は笑っていなかった。笑っていないのに、怒ってもいなかった。何か別の感情。理論家が理論では説明できないものを見たときの——。
ザインが背を向けた。
「立て。次がある」
次。三人の遺産の統合。バイパス回路の設計。実証実験。
立ち上がった。膝が震えていた。アドリブの余韻が体に残っている。あんなことを言ったのは初めてだった。台本なしで。ベルの言葉を借りずに。
——いや、完全に借りずに、ではなかった。「修理する」はベルの第八話の台詞だ。「直す」もベルが使う。語彙の半分はまだベルのものだった。
でも組み合わせ方は、ベルのものではなかった。
マナとサキとユウの名前を入れた。プリクラシールとキャラストラップとアクキーを入れた。五十パーセントのバッテリーを入れた。ベルの台本には書かれていない変数を、ベルの文法に代入した。
アドリブ。
まだ自分の言葉ではない。借り物の文法に、借り物ではない変数を入れただけ。でも——それが、鏡を割った。
「偽物のまま、直す」。
その言葉だけは、ベルのものではなかった。




