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第46話「大丈夫だよ」

 翌夜。


 一眼レフを抱いた。ストラップを首にかけて、グリップを握って、目を閉じた。


 来る。わかっていた。後半が来る。


          ◇


 地下だった。


 マナの儀式と同じ場所。大聖堂の地下。石の柱。蝋燭。壁面の回路。しかし十年分だけ新しい。蝋燭の数が多い。回路の導線が、マナの時代より明るく光っている。補修されている。二十年前のサキの犠牲で回路が強化されたのだろう。


 台座があった。同じ円形の台座。石。二メートル。回路が収束する中心。


 周囲に人が立っていた。僧衣の人々。マナの時代より多い。二十人以上。そして——最前列に、白い髪の老人がいた。長い僧衣。金糸の刺繍。杖。


 グレゴリウス。


 三十年前は若い司祭だった。マナの肩に手を置いた男。今は——老いていた。背が曲がっている。目の下に深い皺。しかし目だけが変わっていない。青い目。あの聖堂でマナを見た目と、同じ目。


 グレゴリウスの隣に、大きな男が立っていた。カイル。革の鎧。腰の剣。顔が——昨夜のフラッシュバックと違っていた。痩せている。頬が削げている。目の下が黒い。眠れていない。何日も。


 レオンと同じだ。マナのフラッシュバックのグレゴリウスと同じだ。聖女の最期が近づくと、近くにいる人間の顔が削げる。


 台座の前に、少女が立っていた。


 白い儀式の衣。マナと同じ。裾が長い。袖が手首まで覆う。髪はまとめていない。黒いストレートが背中に流れている。裸足。


 しかし——マナと一つだけ違った。


 ユウの首に、カメラのストラップがかかっていた。


 白い衣の上に、黒いナイロンのストラップ。カメラ本体は衣の内側に入れている。袖の中で筐体を抱えているのだろう。マナが関数電卓を握っていたように。


 儀式が始まった。


 枢機卿が唱える。回路が反応する。導線が青から白に変わる。光が強くなる。振動。熱。蝋燭が揺れる。


 ユウが台座に向かって歩き出した。


 歩き方が——いつもと同じだった。回廊を歩いていたときと同じ速さ。同じ歩幅。背筋が真っすぐ。目的がある歩き方。周囲を見回さない。まっすぐ前を見ている。


 クールだった。最後まで。


 台座に上がった。裸足の足が石に触れた。回路が反応した。足元から光が走った。


 光がユウの足を昇り始めた。脛。膝。マナのときと同じだ。余剰魔力がユウの体に流れ込む。冷却フィンの代わりに。


 ユウの髪が揺れた。風はない。魔力の流れが空気を動かしている。白い衣が膨らんだ。光が腰まで昇った。


 ユウの表情は——変わらなかった。


 痛いはずだ。熱いはずだ。サキは泣き叫んだとバルトロメイが言っていた。マナは微笑んだ。ユウは——何もしなかった。顔が動かない。目が動かない。切れ長の目が、まっすぐ前を見ている。


 光が胸まで昇った。


 ユウの右手が、衣の内側で動いた。カメラを握っている。最後まで手放さない。マナと同じだ。自分の道具を。自分の目を。


 光が首まで昇った。


 そのとき——ユウの視線が動いた。


 初めて。フラッシュバックの中で、ユウの視線が「まっすぐ前」以外の方向に動いた。


 カイルを見た。


 台座の横。最前列。グレゴリウスの隣。大きな体。革の鎧。腰の剣。介錯の剣。


 カイルが泣いていた。


 声はなかった。マナのときのグレゴリウスと同じだ。音のない涙。大きな体が震えている。顎が歪んでいる。唇を噛みしめている。血が出ている。それでも涙が止まらない。


 剣の柄に手がかかっている。介錯の姿勢。いつでも抜ける。いつでも——終わらせられる。その手が、震えている。


 ユウはカイルを見ていた。


 光が顔まで昇ってきている。あと数秒で全身が光に飲まれる。時間がない。


 ユウの唇が動いた。


 「カイルさん」


 声が——温かかった。


 初めて聞く温度だった。回廊で「これ持ってて」と言ったときの声ではない。焚き火で「ありがと」と言ったときの声でもない。もっと——柔らかい。もっと深い。ファインダーを下ろした声。何も隔てていない声。


 「泣かないで」


 カイルの涙が止まらなかった。


 ユウが——笑った。


 あの自撮りと同じ笑顔だった。ピースサインの写真。七百十三枚目。歯を見せて笑っている。目が細くなっている。頬が上がっている。クールな顔が崩れている。崩れて——きれいだった。


 「……大丈夫だよ」


 三文字。大丈夫。


 誰が。何が。大丈夫なわけがない。十六歳の少女が光に焼かれて消えようとしている。何も大丈夫じゃない。


 でもユウは「大丈夫だよ」と言った。自分のことではない。カイルのことを言っている。カイルが大丈夫かどうかを心配している。死ぬ瞬間に。自分が消える瞬間に。泣いているカイルを見て、カイルのことを。


 ——この子は、ずっと見ていたのだ。


 ファインダー越しに。回路を撮りながら。聖陣を記録しながら。その隅で、カイルを見ていた。カイルの顔が削げていくのを。カイルの目の下が黒くなっていくのを。カイルの手が剣の柄に触れるたびに震えるのを。


 全部見ていた。写真家の目で。何も見逃さない目で。


 だから最後の瞬間に、カイルに向かって笑った。大丈夫だよ。私は大丈夫。だからカイルさんも大丈夫。泣かないで。


 嘘だった。大丈夫じゃなかった。ユウだって怖かったはずだ。痛かったはずだ。でもそれを表に出さなかった。最後まで——クールだった。カイルを心配させないために。


 光がユウを飲み込んだ。


 笑顔のまま。目を細めたまま。「大丈夫だよ」の口の形のまま。


 白い衣が光に溶けた。黒い髪が光に散った。


 台座の上に、黒い一眼レフが残った。ストラップが石の上に伸びている。レンズが上を向いている。レンズキャップがない——カイルのポケットにあるから。


 カイルが叫んだ。


 声が出た。マナのときのグレゴリウスは声が出なかった。カイルは出た。大きな体が、大きな声を出した。言葉になっていなかった。名前でもなかった。ただの音。獣のような音。地下の聖堂に反響して、蝋燭の炎が全部揺れた。


 カイルが台座に走った。膝をついた。一眼レフを拾い上げた。両手で。大きな手で。レンズキャップのない剥き出しのレンズが、蝋燭の光を反射して光った。


 カイルの手がポケットに入った。レンズキャップを取り出した。黒いプラスチック。「ゆう」の三文字。


 レンズにキャップをつけた。


 かちん。小さな音。レンズキャップがレンズに嵌まる音。ユウが毎回、撮影の最後にしていた動作。一番最後につける部品。


 カイルがそれをやった。ユウの代わりに。最後の一回を。


          ◇


 目が開いた。


 施設の床。暗い。一眼レフが胸の上にある。重い。


 泣いていた。


 いつから泣いていたかわからない。メガネが——メガネを外していなかった。レンズが涙でびしょびしょだった。外した。拭いた。拭いても拭いても曇る。涙が止まらないから、拭いた先から曇る。


 諦めた。メガネを床に置いた。ぼやけた世界で泣いた。声を殺して。


 この子は十六歳だった。写真部だった。クールで、寡黙で、レンズキャップに自分の名前を書いて。七百十二枚の完璧な写真を撮って。カイルさんの干し肉を食べて。脚立を押さえてもらって。「ありがと」を二回言って。


 最後に笑って。「大丈夫だよ」と言って。消えた。


 大丈夫じゃなかった。


 大丈夫なわけがなかった。


 スマホを確認した。52%。


 あと何日持つんだろう。この端末。この電池。この数字。マナの数式もサキの理論もユウの写真も、全部この中にある。52%の中に。


 もう笑えなかった。ユウの自撮りを見たときは泣いた。でもまだ笑えた。「なんで笑ってるの」と聞けた。今はもう——聞けない。答えを知ってしまったから。


 ユウは笑いたかったのではない。笑わなければいけなかったのだ。カイルのために。泣いているカイルを安心させるために。最後の瞬間に、自分の恐怖を飲み込んで、笑顔を作った。


 あのピースサインの自撮りも——きっと同じだ。誰かに見せるために撮った。自分がいなくなった後、この写真を見る誰かが、少しでも笑えるように。「大丈夫だよ」の代わりに。


 一眼レフを抱きしめた。


 重い。固い。冷たい。ユウの体温は十年前に消えた。


 でもこの中のSDカードに、ユウの目が残っている。ファインダー越しに見た世界が、七百十三枚。最後の一枚だけが、ファインダーの外を向いている。


 「……ごめんね」


 誰に謝っているのかわからなかった。ユウに。マナに。サキに。全員に。


 「……ごめん。間に合わなくて」


 間に合わなかった。三十年遅れた。二十年遅れた。十年遅れた。三人とも——もういない。


 でも遺品がある。数式がある。動画の記憶がある。写真がある。


 泣き止めなかった。でもスマホをポケットに戻した。一眼レフを胸から離して、膝の上に置いた。レンズキャップを確認した。「ゆう」。ついている。カイルが最後につけた。


 52%。


 泣いていても減る。泣いていなくても減る。待機電力。内部時計。センサー。


 だから泣いている時間はない——とは思えなかった。泣きたいだけ泣いた。朝まで泣いた。

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