第45話「カイルさん、これ持ってて」
その夜、一眼レフを抱いて眠った。
カメラバッグには入れなかった。ストラップを首にかけたまま、筐体を胸に抱えて、横になった。重い。固い。角が肋骨に当たる。でもそうしたかった。
目を閉じた。
カメラのグリップを右手で握っていた。シャッターボタンに人差し指を添えていた。
暗い。
暗さの質が変わった。マナのときと同じだ。空気が変わる。匂いが変わる。石の冷たさが——。
◇
石の回廊だった。
天井が高い。壁に燭台。蝋燭の炎がゆらゆら揺れている。床は磨かれた石。足音が反響する。広い建物。教会か、聖堂か。中継塔ではない。もっと大きい。
回廊の先を、少女が歩いていた。
背中が見えた。
黒い髪。ストレート。肩より少し長い。自撮りの写真と同じ髪。でも写真では笑っていた。今は——背中しか見えない。
制服を着ていた。紺のブレザー。チェックのスカート。膝丈。白いブラウスの襟が見えている。ローファー。2016年の日本の高校の制服。
右肩にカメラバッグを提げていた。黒いナイロン。パッドが入っている。重そうだ。一眼レフとレンズが入っている。バッグの蓋が半開きだった。すぐにカメラを取り出せるように。
歩き方が速かった。目的がある歩き方。観光ではない。周囲を見回していない。まっすぐ前を見て、回廊の奥に向かっている。
足音がもう一つあった。
少女の後ろを、男が歩いていた。
大きい男だった。レオンより背が高い。肩幅が広い。しかしレオンのような鋼線の体ではない。もっと厚い。分厚い革の鎧。腰に剣。歩き方が重い。一歩一歩が地面を踏みしめている。
顔が見えた。
角張った顔だった。顎が四角い。眉が太い。目は——小さい。レオンの灰色の目とは違って、黒い目。日に焼けた肌。三十代か。四十代の入口か。額に横一文字の古い傷。
カイル。
バルトロメイの弟子。副団長。ユウの護衛。処刑騎士。
カイルは少女の三歩後ろを歩いていた。近すぎず、遠すぎず。護衛の距離。しかしその距離が——ぎこちなかった。もう半歩近づきたいのに近づけない、という距離。
回廊の突き当たりに扉があった。少女が扉を開けた。中は——聖陣だった。壁面に導線の溝が走っている。中継塔と同じ。しかし規模が違う。もっと大きい。天井まで回路が伸びている。
少女が立ち止まった。
カメラバッグからカメラを取り出した。動作が速い。慣れている。レンズキャップを外す。電源を入れる。ファインダーを覗く。
シャッター音。
一枚。壁の全体像。
二枚。近づいて、導線の溝のクローズアップ。
三枚。結節点の拡大。
四枚。角度を変えて。光の方向を変えて。
無言だった。一言も喋らない。シャッター音だけが聖陣に響いている。かしゃ。かしゃ。かしゃ。規則正しい間隔。
カイルが扉の横に立っていた。腕を組んでいる。少女を見ている。
十分。二十分。少女はずっと撮り続けていた。壁の回路を、上から下へ。左から右へ。系統的に。
三十分経った頃、少女が振り返った。
初めて顔が見えた——と思ったが、ファインダーに半分隠れていた。カメラを顔の前に持ち上げたまま。片目だけが見えている。切れ長の目。表情がない。
「カイルさん」
声が低かった。高校一年生の声にしては低い。落ち着いている。感情の起伏がない。
「これ持ってて」
レンズキャップを差し出した。
黒いプラスチック。小さい。親指で隠れるくらいの。「ゆう」と油性ペンで書いてある。
カイルが受け取った。大きな手。ユウの手の三倍くらいある手。レンズキャップが掌の中で消えた。
「……ああ」
カイルの声も低かった。声量がない。大きな体に似合わない、小さな声。不器用な声。言葉を選ぶのが苦手な人の声。
ユウはもうカイルを見ていなかった。ファインダーに戻っている。シャッターを切り始めている。レンズキャップを渡したのは、撮影の邪魔だったから。ポケットに入れればいい。でもカイルに渡した。
——信頼だ。
これは信頼の形だ。ユウの信頼は言葉ではなく、物で渡される。レンズキャップ。カメラにとって一番小さな部品。でも一番最初に外して、一番最後につける部品。レンズを守る蓋。それをカイルに預けた。
カイルはレンズキャップを革鎧のポケットに入れた。指先で確かめるように触った。落とさないように。
◇
場面が変わった。
夜。焚き火。野営。回廊ではない。野外。星が見えている。
ユウが焚き火のそばに座っていた。カメラバッグを膝に抱えている。カメラは中に入っている。レンズキャップがついている。撮影は終わった。
食事が配られていた。干し肉とパン。ユウの分が目の前に置いてある。手をつけていない。
カイルが対面に座っていた。自分の分を無言で食べている。視線はユウの食事に行っている。
五分経った。ユウは食べない。
「……食え」
カイルの声。短い。
「お腹空いてない」
ユウの声。もっと短い。
沈黙。焚き火がぱちぱち鳴っている。
「食わないと体が持たない」
「わかってる」
「わかってるなら食え」
「……」
ユウがパンを一口齧った。小さな一口。噛んでいる。飲み込んだ。干し肉は手をつけない。
カイルが自分の干し肉を一切れ、ユウの皿に載せた。
「……増えてる」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない。カイルさんの皿から減ってる」
「いいから食え」
ユウがカイルを見た。ファインダー越しではない。裸眼で。初めて——カイルの顔を、まっすぐ見た。
切れ長の目。表情がないように見える。でも——目の端が、ほんの少しだけ、緩んでいた。怒っていない。呆れていない。
「……ありがと」
小さな声。カイルにしか聞こえない声。焚き火の音に紛れる声。
カイルの顎が動いた。頷いたのか、噛み締めたのか。
ユウが干し肉を食べた。カイルの分を。自分の分も。全部。
◇
場面が変わった。
聖陣の前。昼。ユウが壁に張りついて撮影している。今日は脚立を使っている。高い位置の回路を撮るために。脚立が不安定で、少し揺れている。
カイルが脚立の脚を押さえていた。両手で。膝をついて。
ユウはファインダーを覗いたまま、小さく言った。
「動かないで」
「動いてない」
「息しないで」
「……それは無理だ」
シャッター音。かしゃ。
「もう一枚。……カイルさん、ちょっと左」
「脚立を左にか」
「カイルさんの体を左。影が入る」
カイルが半歩左にずれた。自分の影が壁にかからない位置。ユウの指示は的確だった。光の方向と影の角度を、ファインダーを覗きながら計算している。
かしゃ。
「……いい光」
呟いた。独り言だった。カイルに言ったのではない。光に対する、写真家の独り言。いい光が入ったときだけ、ユウの声にわずかな温度が宿る。
カイルがそれを聞いていた。脚立を押さえたまま。少女の独り言を。何が「いい光」なのかはわからないだろう。でも聞いていた。
ユウが脚立を降りた。カイルが手を差し出した。ユウは手を取らなかった。自分で降りた。でも降りた後、カイルのほうを一瞬見た。
「ありがと」
二度目の「ありがと」。今度も小さい声。でも——最初の夜より、ほんの少しだけ声が大きかった。
◇
目が開いた。
施設の中だった。暗い。一眼レフを胸に抱えている。ストラップが首に食い込んでいる。
ビジョンは途切れた。でも——続きがあることがわかっていた。マナのフラッシュバックと同じだ。前半と後半。日常と最期。
今見たのは日常だった。ユウとカイルの日常。写真を撮って、食事をして、脚立を押さえてもらって。
明日の夜、またカメラを抱いて眠れば、後半が見えるだろう。最期が。
見たくなかった。
カイルの大きな手が、レンズキャップを受け取る場面を見た。あの手が——最後に剣を握るのだ。介錯の剣を。
レオンと同じ。
レオンの手も、アジシオの碗を受け取り、薪を足し、いつか剣を握る。
一眼レフを胸から離した。膝の上に置いた。重い。ユウが毎日首からぶら下げていた重さ。
54%。確認は朝にする。でもフラッシュバック中は消費していないはずだ。目を閉じていただけだから。
レンズキャップを確認した。「ゆう」。端正な三文字。
この子は、カイルさんにレンズキャップを預けた。
私は、レオンに何を預けているだろう。




