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第44話「ピースサイン」

 泣いていた。


 どのくらいの間、泣いていたかわからない。スマホの画面のユウが笑っている。ピースサイン。ブレた構図。七百十三枚目。


 メガネを外した。涙を拭いた。かけ直した。また曇った。外した。拭いた。三回繰り返して、諦めた。メガネを膝の上に置いた。世界がぼやけた。ユウの笑顔がぼやけた。でもピースサインの形だけは見えた。ぼやけた世界の中で、指二本の形だけが。


 「聖女様」


 イレーネの声だった。


 近い。すぐ後ろにいる。いつからいたのだろう。アカリがスマホをスクロールしている間ずっと、後ろに立っていたのかもしれない。七百十三枚、全部見ていたのかもしれない。


 メガネをかけ直した。振り返った。


 イレーネが立っていた。修道服。微笑み。いつものイレーネ。


 「お手を拝借してもよろしいですか」


 手を差し出された。アカリが膝をついたまま泣いていたから、立たせようとしている。


 手を取った。イレーネの手は冷たかった。いつも冷たい。乾いている。汗をかかない手。インク壺を倒さないための手。報告書を書くための手。


 立ち上がった。


 イレーネの視線がスマホの画面に落ちた。一瞬。まばたきより短い。でもアカリの目は涙で洗われたばかりで、今だけ視力がいい。イレーネの目の動きが見えた。


 画面のユウが笑っている。ピースサイン。十六歳。


 イレーネの目が——揺れた。


 前にも見たことがある揺れ方だった。ティックが「あの子も泣いてたー」と言ったあの夜。焚き火の残り火が目に反射した——のではなくて、目そのものが揺れた、あのとき。


 今も同じだった。イレーネの目の中の何かが、ほんの一瞬、制御を失った。


 微笑みは崩れなかった。口元はそのまま。でも目だけが違った。目の奥にあるはずの計算が、一瞬だけ止まった。計算ではない何かが、画面のユウの笑顔を見て、反応した。


 イレーネの右手が動いた。


 アカリの手を離して、自分の首元に向かった。修道服の襟。その下に、いつも隠れているもの。鎖。細い銀の鎖。鎖の先に——小さな印章がぶら下がっている。


 見たことがなかった。いつも修道服の内側にあるから。鎖が首にかかっていることは知っていた。たまに動いたとき、襟の下でかちゃりと鳴る音を聞いたことがある。


 イレーネの指が、修道服の上から印章を握った。布越しに。形が浮き出ている。円形の印章。小さい。親指で隠れる大きさ。


 握りしめた。


 力が入っていた。指の関節が白くなっている。あの夜、ペンの軸を握り直したときと同じ白さ。


 イレーネの指が震えていた。


 微かに。ほんの微かに。焚き火の光の揺れに紛れるくらいの、小さな震え。しかし今は昼間だった。施設の中だった。焚き火はない。揺れる光はない。だから——震えが見えた。


 二秒。三秒。


 指が印章を離した。手が首元から下りた。修道服の襟が元に戻った。印章が布の下に隠れた。


 イレーネの微笑みが——深くなった。いつもより深い。いつもより柔らかい。しかしそれは回復の微笑みではなかった。蓋を閉め直す微笑みだった。何かが開きかけて、慌てて閉じて、鍵をかけた。その鍵のかちゃりという音が、微笑みの深さになった。


 「……素敵な笑顔でいらっしゃいますね」


 イレーネの声は平坦だった。修道服の下に、何も隠していない人の声。


 「この方も、聖女様と同じように、お写真がお好きだったのでしょうね」


 違う。アカリはスマホで記録写真を撮る。ユウは一眼レフで作品を撮る。同じ「写真」でも意味が違う。でもイレーネはそう言った。同じだと。


 ——この人は、ユウを知っていたんだろうか。


 十年前。イレーネの年齢がわからない。二十代か三十代か。十年前なら十代か二十代か。教団の中にいたなら、ユウの存在を知っていた可能性がある。あるいは——ユウの「お世話係」ではなかったか。


 聞けなかった。今は聞けなかった。イレーネの指の震えを見た直後に、質問を投げつけるのは——残酷だった。


          ◇


 施設の外に出た。


 午後の光が眩しかった。地下や暗い室内にいることが多くて、自然光が久しぶりに感じる。


 全員が集まっていた。レオンが施設の入口で待っていた。バルトロメイが木の下に座っていた。ザインが——すでに羊皮紙を広げていた。


 「写真を見せろ」


 ザインの第一声がそれだった。感傷はない。


 スマホの画面をザインに向けた。回路の写真を一枚ずつスクロールしていく。ザインの目が変わった。


 「……見事だ」


 乾いた声に、滲むものがあった。


 「この撮り方は——記録を知っている人間の撮り方だ。光の角度で導線の深さを記録している。スケールを入れて寸法を保存している。系統的に左から右へ、上から下へ。全体像から詳細へ。論文の図版を撮る手順と同じだ」


 写真部の技術が、科学的記録の技術と重なっていた。ユウは論文の撮り方を知っていたのではない。写真の撮り方を知っていただけだ。しかし「良い写真」と「良い記録」は、本質的に同じだった。何を見せたいか。何を伝えたいか。


 「この写真群があれば、冷却系の全回路を三次元的に再構成できる。導線の幅、深さ、交差角度——全て測定可能だ。変数θの導出に必要な実測データが、ここにある」


 ザインの指が震えていた。研究者の興奮。マナの数式を読んだときと同じ種類の震え。


 「マナの数式で理論の骨格を作る。サキの定常リーク理論で漏洩量を定量化する。ユウの写真で実測パラメータを取得する。三つが揃えば——」


 ザインがアカリを見た。


 「バイパス回路の設計が、完成する」


 バルトロメイが木の下から立ち上がった。


 「ユウの子は……」


 声が低かった。十年前を思い出している声。


 「あの子は静かだった。儂の知るどの聖女とも違った。泣かなかった。叫ばなかった。ただ黙って、あの箱で、ずっと撮っていた」


 バルトロメイの手が胸元のガラケーに触れた。サキの遺品。


 「サキは泣いた。声を上げて泣いた。それが——儂にはわかりやすかった。助けなければ、と思えた。しかしユウは泣かなかった。カイルだけが、あの子の横にいた」


 カイルとユウ。レオンとアカリ。同じ構造。護衛と聖女。処刑騎士と生贄。


 レオンが黙って聞いていた。灰色の目がバルトロメイを見ている。何かを計算している——のではない。何かを重ねている。十年前のカイルの姿を、今の自分に。


 「カイルは——あの子に何と呼ばれていた」


 レオンが聞いた。初めてだった。レオンが自分から過去の聖女について質問するのは。


 バルトロメイの皺が深くなった。


 「……『カイルさん』だ。最初から最後まで、『カイルさん』だった」


 レオンは何も言わなかった。


 アカリはスマホをポケットに戻した。56%。ユウの写真が七百十三枚、スマホの中にある。マナの回路図が三十七枚、スマホの中にある。サキの理論はアカリの記憶の中にある。


 三人の聖女の遺産が、全て一つの端末に集まった。


 その端末のバッテリーが、半分を切っている。


 ティックがアカリの肩に止まった。しばらく黙っていたティックが、小さな声で言った。


 「あの子、笑ってたねー」


 「……うん」


 「ティックね、あの子がカメラで撮ってるの見てたよー。ずーっと黙って撮ってたよー。でもねー、一回だけ笑ったの、ティック覚えてるー」


 「いつ?」


 「カイルさんがねー、あの子の荷物持ってあげてたとき。あの子、ちょっとだけ笑ったよー。ちょっとだけー。ティックしか見てなかったかもー」


 カイルが荷物を持ったとき。カメラバッグか、三脚か。ユウが自分から笑顔を見せることはなかった。でもカイルがそばにいて、不器用に何かをしてくれたとき——ちょっとだけ。


 あのピースサインの自撮りは、誰に向けて撮ったのだろう。自分に? それとも——いつか誰かが見てくれることを願って?


 わからなかった。ユウの気持ちはわからなかった。クールな子の内側は、写真には写らない。


 でも一つだけわかったことがあった。


 イレーネ。


 あの指の震え。あの印章を握りしめる力。あの微笑みの奥の、蓋の音。


 イレーネは「ただの監視者」ではない。


 この人も——苦しんでいる。

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