表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/88

第43話「写真部の聖女」

 三日歩いた。


 バルトロメイが先頭に立った。初めてだった。いつもレオンが先頭で、バルトロメイは二番目だった。しかし今回はバルトロメイが道を知っている。十年前に来た場所。十年前のもう一人の聖女の遺品が封じられた場所。


 レオンは二番目に下がった。何も言わなかった。師匠が先頭に立つなら、弟子は背中を守る。それだけのことだった。


 荒れ地を抜けて、林道に入った。道が細くなった。馬車が通れない幅。人一人分。両脇から枝が張り出していて、ザインの白い外套に引っかかる。「邪魔だ」と枝を折りながら歩いている。


 三日目の昼。


 林道の先に、建物が見えた。


 石造りの平屋。教会ではない。倉庫に近い。壁が苔に覆われている。屋根の一部が崩れている。窓は板で塞がれている。扉は——鉄の扉。錆びている。しかし錆の下に、紋様が見える。封印の紋様。中継塔の地下と同じ種類。


 「ここだ」


 バルトロメイの声が低かった。いつもの豪快さがない。この場所に、記憶がある。十年前の記憶。


 「カイルが封じた。あの子の遺品を、ここに」


 カイル。副団長カイル。アカリはまだ会ったことがない。聖都にいる。しかしバルトロメイの口から何度か名前が出ている。カイルはユウの護衛だった。レオンがアカリの護衛であるように。


 処刑騎士。


 バルトロメイがアカリを見た。深い皺の奥の目が、何かを確かめている。


 「開けるか」


 「開けます」


 ザインが封印を解いた。中継塔の地下と同じ手順。手をかざして、唇が動いて、紋様が光って、かちん。


 鉄の扉が軋みながら開いた。


          ◇


 中は暗かった。


 窓が塞がれているから、外光が入らない。埃の匂い。乾いた空気。十年間閉じられていた空間の匂い。マナの地下室と似ている。でもマナは三十年。こちらは十年。埃の厚さが違う。薄い。


 フラッシュライトを点けた。58%。


 光が室内を舐めた。


 石の棚が壁に沿って並んでいる。棚の上に——何もない。ほとんど何もない。この施設は倉庫だったらしい。今は空っぽだ。ただし、部屋の奥に、木の箱が一つ置いてあった。


 箱は小さかった。りんご箱くらいの大きさ。蓋がある。蓋にも封印の紋様。ザインが解いた。


 蓋を開けた。


 布が敷いてあった。黒い布。ビロードではない。もっと実用的な布。何かを包んでいる。


 布を開いた。


 一眼レフだった。


 黒い筐体。ずっしりと重い。デジタル一眼レフ。十年前のモデル。メーカーのロゴが正面に見える。日本のメーカー。エントリーモデルだろう。写真部の高校一年生が最初に買うような、入門機。


 カメラの下に、カメラバッグがあった。黒いナイロン。パッドが入っている。内ポケットのジッパーを開けた。予備のSDカード。レンズクリーナー。そして——何かが指に触れた。硬い。薄い。プラスチック。


 アクリルキーホルダーだった。


 五センチくらいの透明なアクリル板。中に印刷されたキャラクター。魔法少女。2010年代のソシャゲの。杖を構えた女の子。青い髪。戦闘服。アカリの世代なら知っている作品——あのダークな魔法少女もの。


 バッグの外には出していなかった。内ポケットの奥。人に見せない場所。ユウらしい。クールな子が、カメラバッグの一番奥にだけ、好きなものを隠していた。


 一つだけ。たった一つだけの推し。


 持ち上げた。


 重い。アカリのスマホの三倍以上の重さ。この重さを、首からぶら下げて歩いていたのか。


 筐体の角が擦り減っていた。右下の角。左上の角。対角線上の二箇所。カメラバッグから出し入れするとき、いつも同じ角がバッグの縁に当たる。写真を撮る人間の癖だ。右手でグリップを握り、左手でレンズを支える。その動作を何千回も繰り返すと、角が削れる。


 ストラップを見た。


 黒いナイロンのストラップ。メーカー純正。長さが調整されている。バックルの位置が——短い。首にかけたとき、カメラが胸の高さに来る長さ。アカリが試しに首にかけてみた。ちょうどいい。百五十五センチのアカリにちょうどいいということは、ユウもアカリと同じくらいの身長だったのかもしれない。


 ストラップの首に当たる部分に、変色があった。汗の染み。首の肌が触れる部分だけが、布の色が薄くなっている。何百日も、何千回も、首にかけていた痕跡。マナの電卓のキーと同じだ。道具に残った体の記憶。


 レンズキャップを見た。


 黒いプラスチックのキャップ。表面に——油性ペンの文字があった。


 「ゆう」


 ひらがな。三文字。端正な字だった。丸くない。角張っている。几帳面な字。マナの走り書きとは正反対の、一画ずつ丁寧に書かれた字。


 この子は、自分のカメラに名前を書いた。レンズキャップに。レンズを守る蓋に。一番最初に外して、一番最後につける部品に。


 「ゆう……」


 声に出した。二人目の名前。マナ。ユウ。


 レンズキャップを外した。レンズが露出した。ガラスの表面に薄い曇りがある。十年分の。でもレンズ自体は傷がない。この子はレンズを大事にしていた。ボディの角は削れても、レンズは無傷。写真をやる人間の優先順位。本体は消耗品。レンズは命。


 バッテリーグリップを確認した。カメラのバッテリーは——死んでいる。当然だ。十年。リチウムイオン電池の自然放電で、とっくにゼロだ。画面は点かない。起動しない。


 しかし。


 カメラの側面にスロットがあった。SDカードスロット。蓋を開けた。


 SDカードが入っていた。


 小さな黒いチップ。三十二ギガバイト。SDHCカード。十年前の標準容量。


 SDカードにはバッテリーがない。電力を使わない記録媒体。データは磁気で保存されている。十年だろうが二十年だろうが、物理的に壊れない限り、データは消えない。


 ガラケーの動画は、バッテリーが死んだら二度と再生できなかった。関数電卓の液晶は、割れたら二度と数字を表示しなかった。


 でもSDカードは生きている。電力がなくても。バッテリーに依存しない記録。


 アカリの手が震えた。


 スマホを取り出した。58%。SDカードリーダーは——ない。スマホにSDスロットはない。iPhoneだから。


 「……変換アダプタ」


 工具ポーチの底を漁った。あるはずだ。コスプレ衣装の電飾を設計するとき、カメラの写真をスマホに転送するために、Lightning-SDカードリーダーを持ち歩いていた。文化祭の準備で使った。工具ポーチに入れっぱなしだった。


 あった。


 白い小さなアダプタ。Apple純正。買ったとき千五百円くらいだった。こんなものが——こんな場所で——こんなに大事になるとは。


 アダプタをスマホに挿した。SDカードをアダプタに挿した。


 スマホの画面が変わった。「読み込み中……」


 ぐるぐるマークが回っている。十年分のデータを読んでいる。重い。時間がかかる。


 一分。二分。


 読み込みが完了した。


 写真アプリが開いた。サムネイルが並んだ。


 数が——多い。


 七百枚以上あった。


 最初の一枚をタップした。


 回路の接写だった。


 石の壁面を走る導線の溝。クローズアップ。ピントが完璧だった。被写界深度が浅い——絞りを開けて、導線の表面だけにフォーカスしている。背景がきれいにボケている。


 二枚目。結節点の拡大。光の当て方が巧い。斜めから光を入れて、導線の溝の深さが影で浮かび上がっている。


 三枚目。回路の分岐点。定規が一緒に写り込んでいる。スケール。寸法がわかるように。


 四枚目。五枚目。六枚目。全て回路の写真。全てピントが正確で、構図が整理されていて、スケールが入っている。記録写真としての基本を全て押さえている。


 この子は——上手い。


 写真が上手い。単に撮っているのではない。何を記録すべきかわかっている。構図で情報を伝えている。被写界深度で重要な箇所を強調している。光の使い方で質感を記録している。


 「すごい……」


 呟いた。構図も露出も完璧。写真部で鍛えた技術が、聖陣の記録に転用されている。マナが数式で世界を記述したように、サキが動画で声を残したように、ユウは写真で回路を記録した。


 スクロールを続けた。百枚。二百枚。三百枚。全て回路の接写。系統的に撮られている。壁の上から下へ。左から右へ。結節点ごとに。分岐点ごとに。冷却系のラインに沿って。


 ザインが覗き込んだ。


 「……これは」


 声が変わった。


 「聖陣の全回路が、写真で記録されている。これがあれば——変数θを実測できる」


 変数θ。マナが導出できなかった値。バイパス回路の排出先を決定する角度。マナの数式に欠けていた最後のピース。


 それが、七百枚の写真の中にある。


 スクロールを続けた。六百枚。六百五十枚。七百枚。


 七百十三枚目。


 回路ではなかった。


 人が写っていた。


 少女だった。


 自撮り。カメラを自分に向けて撮った一枚。構図が不安定だ。腕を伸ばして撮っている。七百十二枚の完璧な構図の写真の中で、この一枚だけがブレている。


 ピースサイン。


 右手でカメラを持ち、左手でピースサインをしている。


 笑顔。


 黒い髪。ストレート。肩より少し長い。前髪を横に流している。目が——大きくはない。切れ長の目。細い眉。唇が薄い。鼻筋が通っている。クールな顔立ち。この顔で無表情に写真を撮り続けていたら、周りはきっと近づきがたかっただろう。


 でも笑っていた。


 この一枚だけ。七百十三枚のうちの、たった一枚だけ。歯を見せて笑っている。ピースサインをしている。十六歳の、普通の女の子の笑顔。


 写真部の子が、自分のカメラに向けた、たった一度の笑顔。


 スマホの画面が滲んだ。涙だった。いつから泣いていたのかわからない。メガネのレンズに涙が落ちた。拭いた。また落ちた。拭いた。拭いても拭いても——。


 「なんで……なんで笑ってるの……」


 この子は死んだのに。光になったのに。十六歳で。写真が上手くて。レンズキャップに自分の名前を書いて。七百十二枚の完璧な記録写真を撮って。そのあとたった一枚だけ、自分にカメラを向けた。


 ピースサイン。笑顔。


 それが、ユウが残した最後の一枚だった。


 56%。読み込みとスクロールで2%減った。


 メガネを外した。拭いた。レンズが曇っている。涙の跡が乾いて、白い筋になっている。かけ直した。


 画面の中のユウが、まだ笑っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ