第42話「定常リーク理論」
数日が過ぎた。
街道を歩きながら、ザインとアカリの問答は続いていた。数式と回路図の翻訳作業。ザインがマナの理論を読み解き、アカリがマナの回路図を読み解く。二つの作業が、焚き火を挟んで夜ごとに交差する。
ザインの翻訳は進んでいた。三十七枚の紙束のうち、二十四枚の数式を八割がた解読したと言っていた。「残りの二割は——私の理論体系にない概念だ。この人物は、この世界の魔法理論を超えた場所に到達しかけている」
アカリの作業も進んでいた。マナの回路図八枚を、スマホの写真で繰り返し確認し、現代のJIS規格に基づいて再解釈している。冷却系のバイパス回路の概念図は理解できた。詳細図の前半部分も読めた。問題は後半——未完成の部分。線が途切れている部分。
その夜。
焚き火を囲んでいた。アカリはスマホの画面をザインに見せていた。マナの回路図の写真。輝度は最低。節電ルール。でもザインに見せるためには画面を点けなければならない。
62%。朝確認したとき。今は——確認しない。ザインとの作業中はバッテリーを見ない。見ると手が止まる。
「この結節点の先が途切れている。バイパス回路の出口。余剰魔力の排出先」
アカリが画面の一箇所を指差した。回路図の末端。線が消えている場所。
「マナはここを設計できなかった。排出先を特定するための変数が足りなかったって、ザインが言ってた」
「そうだ。変数θ——魔力流の偏角だ。聖陣の冷却系において、余剰魔力がどの方向に排出されるかを決定する角度。これを実測しなければ、排出先の設計は不可能だ」
ザインが自分の羊皮紙を広げた。マナの数式を翻訳したページ。びっしりと書き込まれている。
「だが——問題はそこだけではなかった」
ザインの声が変わった。いつもの乾いた声ではない。何かを見つけたときの声。中継塔の地下に扉を見つけたときと同じ種類の声。
「今朝、残りの二割——私の理論体系にない部分を解読していて、気づいた」
ザインの指が、羊皮紙の一箇所を示した。
「ここだ。マナの数式の第十七ページ。冷却系の熱容量を計算する式の中に、奇妙な項がある。マナ自身の導出ではない。参照している」
「参照?」
「別の理論を参照しているのだ。マナの数式の中に、マナ以外の人間が作った理論への言及がある」
アカリの手が止まった。
「ここに注釈がある」
ザインが紙束から一枚を引き抜いた。第十七ページ。数式の余白に、小さな日本語が書かれている。アカリは身を乗り出した。フラッシュライトで照らす。
マナの筆跡。でもいつもの硬い線ではなく、走り書き。急いでいる。何かに気づいた瞬間に、忘れないうちに書きつけた字。
——「定常リーク。聖陣の定常状態における微量漏洩。この現象を理論化できれば、冷却系の欠陥を定量的に記述できる。しかし私の手持ちのデータでは不十分。次の聖女が、もし理論寄りの人間なら——」
次の聖女。
マナは知っていた。自分の後に、また聖女が召喚されることを。次の周期で。そしてその聖女が、自分の理論を引き継いでくれることを願っていた。
「定常リーク」。
その言葉を、アカリは知っていた。
「——サキだ」
声が出た。
ザインの目がアカリを射抜いた。
「サキの動画の中で。二本目の動画。サキが冷却系のバグについて話してた。そのとき——」
記憶を辿る。サキの声。QVGAの粗い映像の中で、サキが泣きながら説明していた。冷却系のバグ。余剰魔力の処理。そして——。
「サキは『定常状態での微量のリーク』って言ってた。封印の聖陣が定常状態で運用されているとき、冷却系から微量の魔力が漏洩している。その漏洩が蓄積して、定期的に臨界を超える。だから周期的に聖女が犠牲になって、蓄積分を処理しなきゃいけない。しかも——犠牲のたびに回路が劣化して、周期がどんどん短くなってるって」
「それだ」
ザインが身を乗り出した。白い外套が焚き火の近くまで来て、裾が焦げそうだった。
「定常リーク理論。マナが命名し、未完のまま残した理論を——サキという人物が、独立に再発見したのか」
「再発見というか……サキはマナの存在を知らなかったと思う。サキの動画では、自分が最初にバグを発見したみたいな口ぶりだった。でも——」
「同じ結論に、別々の人間が、別々の時代に到達した」
ザインの目が燃えていた。焚き火の反射ではない。内側からの光。
「マナは理論の骨格を作った。しかしデータ不足で定量化できなかった。サキは同じ現象を独立に発見し、理論の一部を構築した——だが動画に残しただけで、数式としては未完成だった」
二人の理論家が、三十年の隔たりを挟んで、同じバグに手を伸ばした。どちらも完成させられなかった。
「ザイン。マナの数式とサキの理論を合わせたら——」
「定常リーク理論が完成する可能性がある。マナの骨格に、サキの定量データを代入すれば。しかし——」
ザインが言葉を切った。目が細くなった。
「サキの理論はどこにある。動画と言ったな。ガラケーの中か」
「……バッテリーが死んでる。もう再生できない」
沈黙が落ちた。焚き火がぱちぱち鳴っている。
サキのガラケーはバルトロメイの首にかかっている。バッテリーは死んでいる。アカリのスマホから充電したが、ガラケーの内蔵バッテリー自体が二十年の劣化で限界を超えていた。充電しても、もう起動しない。
動画の内容は——アカリの記憶にしかない。QVGAの粗い映像。サキの泣き顔。音声が途切れがちだった。全部は聞き取れなかった。でも「定常状態での微量のリーク」という言葉は覚えている。冷却系のバグの説明も、大筋は覚えている。
「私の記憶にある。全部じゃないけど。サキが言ってたことの大筋は覚えてる」
「記憶か」
ザインの声に、かすかな失望があった。記憶は不正確だ。理論家にとって、記憶に頼る数値は信用できない。
「だが——ないよりはましだ。お前の記憶を、私が聞き取り、数式に翻訳する。不足分は推定で補う。完璧ではないが、骨格は作れるかもしれん」
ザインが羊皮紙に何かを書きつけた。走り書き。マナと同じだ。気づいた瞬間に、忘れないうちに。
バルトロメイが口を開いた。
「もう一つ、ある」
全員がバルトロメイを見た。
老騎士は焚き火の向こうに座っていた。鎧の金属が炎を反射している。胸元の革紐——ガラケー。それに手を添えたまま。
「三代目の聖女——サキの次に来た子だ。十年前」
十年前。サキが二十年前。マナが三十年前。その間に、もう一人いた。
「名をユウと言った。静かな子だった。——大きな箱のような機械を首から下げて来た」
大きな箱のような機械。カメラだ。一眼レフ。
「あの子は写真を撮っていた。光る箱——お前のものとは形が違ったが——で、聖陣の回路を、一つ残らず撮影していた。他の子のように泣いたり叫んだりしなかった。ただ黙って、ずっと撮っていた」
光る箱。デジタルカメラ。一眼レフか、コンデジか。十年前の小学生が持っていたカメラ。
「あの子の遺品は、副団長カイルが封じた。儂は——場所を知っている」
アカリの心臓が鳴った。
写真。聖陣の回路の写真。実測データの宝庫。マナが持てなかったもの。サキが欲しがったもの。変数θを特定するための、現物の写真。
「ザイン」
「聞こえている」
ザインの目が光っていた。もう計算を始めている。頭の中で。
「マナの数式。サキの理論。ユウの写真」
アカリは三つの名前を口にした。三人の聖女。三十年。二十年。十年。
「三つが揃えば——バイパス回路を完成できる?」
ザインは即答しなかった。理論家は確証のないことを断言しない。
「……可能性は、ある」
慎重な言葉。でもザインの目は慎重ではなかった。あの目は——信じている。まだ「かもしれない」の段階だが、ザインの目は「できる」と言っている。
「もう一つ」
ザインが付け加えた。目を逸らしながら。
「マナの数式の末尾に、逆召喚に関する記述がある。回路が正常化すれば、召喚に使われたエネルギーが逆行する——理論上は。証明はされていない」
逆召喚。帰れる。回路を直せば——帰れるかもしれない。
「証明されていない」とザインは言った。理論家は証明のないことを信じない。しかし——可能性を口にした。
「場所は?」
レオンだった。バルトロメイを見ている。
「ここから南東に三日。旧教団の施設がある。十年前に閉鎖された。カイルがあの子の遺品を——」
「行く」
レオンの一語。護衛の声ではなかった。もっと——速い声。アカリが「行きます」と言う前に、レオンが先に言った。
アカリはレオンの横顔を見た。灰色の目が焚き火に照らされている。あの目の中に何があるのか。護衛の義務か。処刑騎士の計算か。それとも——。
昨夜の薪の一本が、焚き火の中でまだ燃えていた。
イレーネが微笑んだ。いつもの微笑み。しかし今夜の微笑みは、どこか——薄かった。
「聖女様。三人の聖女の遺産が揃えば、封印の儀式を変えられるかもしれない——そういうことでございますね」
「……はい」
「素晴らしいことでございます」
素晴らしい。イレーネはそう言った。しかしその声が、アカリの耳にはわずかに空洞に聞こえた。封印の儀式が変わる。聖女が死ななくていい。それは——イレーネの報告書にとって、何を意味するのか。イレーネの任務にとって。
考える暇はなかった。
スマホを確認した。60%。
マナの数式。サキの理論。ユウの写真。三つの遺産。三十年と二十年と十年の蓄積。三人の少女が、それぞれの時代に、同じバグに手を伸ばした。誰一人完成できなかった。
四人目が、完成させる。
60%。まだ足りる。足りなければいけない。




