第4話「方向音痴の聖女」
三日目にして確信した。この宿舎は迷宮だ。
石の廊下が似すぎている。曲がり角の先も石壁。その先も石壁。燭台の位置が微妙に違うだけで、分岐点の区別がつかない。スマホのマップは当然使えない。
食堂に向かっているはずだった。
今は、見覚えのない中庭に立っている。
「……ここ、さっき通った? 通ってない? わかんない。全部同じに見える」
ティックが頭上を旋回している。「こっちだよー」。ふわふわと右の回廊に飛んでいく。
「ティック、それ昨日も言って厨房にたどり着いたよね」
「厨房おいしいものあるよー」
「食堂に行きたいの!」
結局、通りがかった修道士に案内してもらった。聖女が迷子になった、と廊下がざわめいた。イレーネが微笑みながら迎えに来た。その手には例の羊皮紙がある。また何か書かれた。絶対書かれた。
◇
料理の時間が、地獄だった。
「聖女様にも家事をお手伝いいただけますか、と厨房から申し出がございまして」
イレーネの口調は丁寧だが、目がテストの監督官だった。
根菜の皮むき。ナイフの持ち方がぎこちない。ニッパーなら0.5ミリの銅線を正確に切れるのに、芋の皮がうまく剥けない。厚く剥きすぎて中身が半分になった。
スープの味付け。アジシオを入れた。おいしくなった。アジシオ以外を入れた。おいしくならなかった。乾燥ハーブの匂いを嗅いで、量がわからず入れすぎた。修道士がひと口飲んで、静かに碗を置いた。
「……ごめんなさい」
「いえ。聖女様のお手は、別のことに向いておいでなのでしょう」
イレーネの言葉は優しかった。でも、何に向いていると思ったのか。そこは言わない。
片付けの時間。木の碗を重ねているとき、匙が指に当たった。
手が止まった。
金属の匙を持ち上げる。光に透かす。表面の色。重さ。指先で弾いたときの響き。ホームセンターの素材コーナーで百回はやった動作が、勝手に起動した。
「この合金……錫と銅だ。青銅に近いけど比率が違う。錫が多め。導電率は純銅の十五パーセントくらいかな……」
匙をくるくる回しながら呟く。「鋳造の精度がかなり高い。気泡がない。砂型じゃなくて蝋型だ。この世界の冶金技術、想像してたより——」
顔を上げた。
イレーネが、匙を回すアカリの指先を凝視していた。微笑みが、ほんの少しだけ別の形をしている。眉の角度が変わった。口元は笑っているのに、目が追いついていない。いつもの羊皮紙に手を伸ばす気配もなかった。
「……聖女様は、奇妙なお方ですね」
「え? あ、ごめんなさい職業病みたいなもので——」
「いいえ。奇妙と申しましたのは、お褒め言葉でございます」
本当だろうか。わからない。この人の言葉は、いつも本当と嘘の境界線の上に置かれている。
◇
翌朝。イレーネがいつもより早く部屋に来た。
「聖女様。明日、大聖堂にて公式のお披露目がございます」
「お披露目……?」
「民に聖女のお姿をお見せになる儀式でございます。聖なるお衣装のご準備をお願いいたします」
衣装。
聖なる衣装。
スーツケースの中身が脳裏をよぎった。三ヶ月かけて縫った衣装一式。LED配線四十時間分の結晶。あのホームのコンクリートの上に、置いてきた。
「衣装……って……」
バックパックを見る。中にあるのは装甲パーツの一部だけだ。胸部装甲板、肩アーマー、ユーティリティベルト、グローブ。全体の三割にも満たない。
「……スーツケースは、ホームに置いてきちゃったんだけど」
イレーネが首を傾げた。そりゃそうだ。ホームもスーツケースも、この人には通じない。
ティックが窓辺から声を上げた。
「ねえねえ、お着替えするのー? ティック、きれいなの好きー!」
きれいなのは三割しかない。残り七割は現実世界のコンクリートの上だ。
……どうしよ。
いや、どうしよじゃない。やるしかない。三割の装甲パーツで、聖女のお披露目を乗り切る。
考えろ。考えろ考えろ。頭、回れ。




