第39話「最後の微笑み」
翌朝、また地下室に降りた。
誰にも言わなかった。朝食の前に。フラッシュライトで階段を照らして、旅装束の上に座って、関数電卓を手に取った。
もう一度。もう一度だけ。
両手で包んだ。目を閉じた。
◇
場所が変わっていた。
聖堂ではない。もっと広い。もっと暗い。天井が遥か頭上にある。地下だ。石の壁。石の柱。蝋燭が何百本も灯されていて、空気が蝋の熱で揺らいでいる。
壁面に回路が走っていた。
中継塔の回路と同じ導線の溝。だが規模が違う。壁の全面に。天井にも。床にも。何千本もの導線が縦横に走り、結節点が星のように光っている。青い光。微かだが確かな光。回路全体が、低い振動で唸っている。
大聖堂の地下。封印の聖陣。
中央に円形の台座があった。石でできている。直径は二メートルほど。台座の表面にも回路が刻まれていて、壁の回路と繋がっている。全ての導線が、この台座に収束している。
台座の周囲に人が立っていた。僧衣の人々。十人以上。顔は見えない。蝋燭の光が揺れて、影が深い。しかし一人だけ——金色の髪が蝋燭に照らされている人物がいた。若い男の僧侶。グレゴリウス。昨日の聖堂と同じ人。しかし顔が違う。老けたのではない。削げたのだ。頬が。目の下が。眠れていない顔。何日も。
台座の前に、少女が立っていた。
セーラー服ではなかった。白い衣。儀式用の衣装。裾が長い。手首まで覆う袖。髪がまとめられている。首筋が見える。細い首。華奢な肩。
そして——初めて、顔が見えた。
丸い顔だった。頬がまだ少し丸い。十六か十七か。眼鏡をかけていない。目が大きい。黒い目。唇は薄い。鼻が小さい。普通の顔だった。日本のどこにでもいる、普通の女の子の顔。学校の廊下ですれ違っても、気づかないかもしれない。そういう顔。
でもその目の奥に、何かがあった。聖堂で計算していたときの目とは違う。あのときは数式に集中していた。今は——もっと遠くを見ている。もっと深いところを。自分の中のどこかを。
マナの右手が、関数電卓を握っていた。白い儀式の衣の袖の中で。誰にも見えないように。
壇上の老人——枢機卿だろう——が何か唱えている。儀式の言葉。回路が反応する。壁の導線が青から白に変わっていく。光が強くなる。振動が大きくなる。空気が熱くなる。蝋燭の炎が揺れる。
マナが台座に足を踏み出した。
グレゴリウスが動いた。半歩前に。手が伸びかけた。止まった。止められた。隣の僧侶が腕を掴んでいる。グレゴリウスの顔が歪んだ。叫びたいのを堪えている顔。
マナは振り返らなかった。
台座に上がった。裸足だった。白い衣の裾から、素足が見える。石の台座は冷たいはずだ。でもマナの足は震えていなかった。
台座の中心に立った。
回路が反応した。足元から光が走った。台座の導線が一斉に白く光り、壁の回路に伝播していく。全ての導線が光る。部屋全体が白くなる。
光が、マナの足元から昇ってきた。
白い光。導線を通ってきた魔力が、台座の中心で解放され、マナの体に流れ込んでいく。足から。脛から。膝から。腰から。
——熱い。
熱いはずだ。サキの動画で言っていた。「余剰魔力を体で受け止める。冷却フィンの代わりに、聖女が燃える」。今まさに、マナの体が冷却フィンになっている。回路が処理しきれなかった余剰熱が、全部マナに流れ込んでいる。
マナの髪が逆立った。白い衣が風もないのに膨らんだ。光が胸まで昇った。首まで。顔まで。
マナが——笑った。
微笑みだった。
痛みの中の微笑みではなかった。恐怖を押し殺した微笑みでもなかった。もっと穏やかで、もっと深い。あの聖堂で、前髪の向こうに隠れていた顔が、今は光の中で晒されている。目が細くなっている。唇の端が持ち上がっている。
「これで——」
声が聞こえた。光の唸りの中で。小さな声。計算式を書くときの早口ではない。ゆっくりとした声。
「これで、みんな助かるのね」
光がマナの全身を覆った。輪郭が溶けていく。白い衣が光に同化していく。
最後に見えたのは、右手だった。袖の中で関数電卓を握っている手。光の中でも離さなかった。三十年分の計算を閉じ込めた、あの電卓を。
光がマナを飲み込んだ。
グレゴリウスの口が開いた。声が出なかった。腕を掴まれたまま、台座を見つめていた。光が収まっていく。回路の振動が止まっていく。
台座の上に、誰もいなかった。
白い衣の裾だけが残っていた。そして——黒いプラスチックの塊が一つ。台座の中心に。焦げた匂いがする。液晶が割れていた。左上から右下に走る亀裂。衝撃ではない。熱だ。光の熱で液晶が膨張して、割れた。
グレゴリウスが走った。腕を掴んでいた僧侶を振りほどいて。台座に駆け寄って。膝をついて。
電卓を拾い上げた。まだ熱かった。両手で包んだ。大きな手で。骨ばった手で。聖堂でマナの肩に置いた手で。
泣いていた。声はなかった。音のない涙が、電卓の上に落ちた。
◇
アカリは目を開けていた。いつから開いていたのかわからない。フラッシュバックの中なのか、外なのか。境界が曖昧だった。
マナの微笑みが、まだ瞼の裏に焼きついている。
あの微笑み。穏やかで、深くて、きれいだった。死の瞬間の微笑み。「これで、みんな助かるのね」。
——嘘だ。
声が出た。自分の声。地下室に響いた。
「嘘だよ、それ」
あの微笑みは、「みんなが助かる」喜びだけじゃなかった。もっと別のものが混ざっていた。アカリにはわかった。わかってしまった。
認められたかったのだ。
マナの数式を、誰も読まなかった。回路図を、誰も理解しなかった。「神の設計に欠陥はない」と三回言われた。門前払いされた。聖堂で一人で計算して、消しゴムを使い切って、シャーペンの芯を節約して。
誰にも認めてもらえなかった。
でも封印の儀式で死ぬ瞬間——自分の体が冷却フィンになる瞬間——世界を救える。数式は完成しなかった。バイパス回路は未完成だった。でも自分の体を燃やせば、百年分の封印は維持できる。自分が犠牲になれば、世界が救われる。
そのとき初めて——自分の存在に意味が生まれる。
「この人……認められたかったんだ」
声が震えている。
「自分の数式が世界を救うことで、やっと認められたと感じた。数式じゃなくて、体で。理論じゃなくて、犠牲で。死ぬことでしか認めてもらえないって——」
喉が詰まった。
「——私と、同じだ」
言ってしまった。
同じ。アカリも同じだ。工業高校で、回路の前で早口になるたびに周りがひいた。文化祭のコスプレ衣装にLED仕込んだら「やりすぎ」と言われた。お父さんだけが「すごいな」と言ってくれた。お父さんだけが。
この世界に来て、聖女になって。ステッキの光で影狼を倒して、銅線で中継塔を直して。「すごい」って言われたかった。「お前の技術は本物だ」って言われたかった。ザインがそう言ってくれたとき、嬉しかった。本当に嬉しかった。
でもマナは——誰にも言ってもらえなかった。死ぬまで。死んで初めて、「これで世界が救われる」。死が承認になった。
それは——救いなのか。
マナの微笑みは、救いの顔をしていた。穏やかで、きれいで。でもその下に、乾いた何かがあった。渇きだ。認められたい。理解されたい。自分の仕事に意味があると、誰かに言ってほしい。その渇きが、死の瞬間にようやく満たされた。
だからあの微笑みは——安堵であると同時に、諦めだった。
「私は」
地下室で、一人で、声に出した。
「死なないで認められたい。死なないで——帰りたい」
関数電卓を膝の上に置いた。
冷たかった。マナの体温は三十年前に消えた。グレゴリウスの涙の跡も、もう乾いている。
でもこの電卓の中に、マナの数式がある。未完成の理論がある。ザインが読める理論がある。アカリの手で実装できるかもしれない理論がある。
マナは死んで世界を救った。でもマナが本当にやりたかったのは——死なずに世界を救うことだった。バイパス回路は、そのために設計されたのだ。「この数字が正しければ、誰も死ななくていいの」。ティックが覚えていた言葉。
マナが完成させられなかった回路を、アカリが完成させる。マナの理論と、サキの発見と、アカリの手で。
それがマナの「理解してほしかった」への、本当の返答だ。
立ち上がった。膝の砂を払った。関数電卓をポケットに入れた。スマホをもう片方のポケットに入れた。左に電卓、右にスマホ。三十年の距離が、ポケット一つ分になった。
階段を上がった。朝の光がアーチから差し込んでいた。
スマホを確認した。66%。
まだ、ある。




