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第38話「セーラー服の少女」

 「やれ」。


 ザインの一語が、まだ耳に残っていた。


 焚き火が燃え落ちて、全員が寝支度を始めた後も。レオンが黙って薪を足した後も。イレーネの微笑みが戻った後も。ティックが「ころさないのいいねー」と三回繰り返した後も。


 やれ。マナの理論とアカリの手で、聖女を殺さずに封印を維持できるかもしれない。


 「かもしれない」。まだ確定ではない。バイパス回路の後半は未完成だ。排出先の設計に実測データが要る。でも——可能性がある。初めて、具体的な可能性が。


 眠れなかった。


          ◇


 その夜。


 全員が寝静まった後、アカリは一人で地下室に降りた。


 松明はない。スマホのフラッシュライトで階段を照らす。68%。回路図を撮ってから2%減った。カメラは使っていない。待機電力だけで減っている。


 地下室に降りた。


 遺品は地上に運び出していたが、灰色の旅装束だけは残してあった。広げると地面の形に馴染んでいる。三十年間、ここに敷かれていた布。この布の上で、あの人は計算していたのだろう。


 関数電卓を持ってきていた。ポケットに入れて。


 旅装束の上に座った。冷たい。石の冷たさが布を通して伝わってくる。


 電卓を手のひらに載せた。


 軽い。スマホより軽い。百五十グラムもないだろう。割れた液晶。消えたキー。三十年の指紋が刻まれたプラスチック。


 両手で包んだ。


 目を閉じた。


 ——暗い。


 暗いのは目を閉じたからだ。当たり前だ。でも暗さの質が変わった。地下室の暗さではない。もっと広い暗さ。天井が高い。空気が変わっている。石の匂いが違う。もっと乾いている。もっと古い。蝋燭の——蝋の匂い。


 目を開けた。


 地下室ではなかった。


          ◇


 聖堂だった。


 石の柱が並んでいる。高い天井。アーチ型の窓から、夕陽が差し込んでいる。オレンジ色の光が石の床に長い影を作っている。壁面にステンドグラスのような色ガラスが嵌め込まれていて、光が赤や青や緑に分かれて床に落ちている。


 広い空間に、人が一人だけ座っていた。


 少女だった。


 石の床の上に直接座っている。正座ではない。体育座り。膝を抱えて、その上に紙を広げている。紙の横に関数電卓が置いてある。同じ電卓。まだ液晶が割れていない。黒い筐体が新しい。ボタンの印字がはっきり見える。sin、cos、log——まだ白い文字が残っている。


 少女の服が——セーラー服だった。


 紺色。白い襟。赤いリボン。スカートは膝丈。白いソックス。ローファー。日本の中学校の制服。あるいは高校の。1980年代のデザイン。袖口が少し汚れている。砂で。この世界の砂で。


 顔が見えなかった。


 俯いている。前髪が顔を隠している。黒い髪。肩より少し長い。片方の耳だけ出ている。耳にピアスはない。中学生か高校生か。細い首。細い手首。その手首から伸びる指が、シャーペンを握って紙の上を走っている。


 速い。ものすごく速い。数式を書くスピードが尋常じゃない。一行書き終わると、次の行。紙の端まで行くと、紙をひっくり返して裏に書く。裏も埋まると、次の紙。横に積まれた紙の束が、書き終わった紙で厚くなっていく。


 時々、関数電卓に手が伸びる。キーを叩く。画面を見る。また書く。


 一言も喋らない。聖堂の中に、シャーペンが紙を走る音と、電卓のキーを叩く音だけが響いている。


 夕陽が傾いた。ステンドグラスの色が変わった。赤が消えて、青が濃くなった。影が長くなった。


 少女は動かなかった。同じ姿勢。同じ速度。


 足音が聞こえた。


 石の床を踏む音。革靴。聖堂の入口から。少女の手が止まった。顔を上げた——が、前髪が邪魔で、やはり顔は見えなかった。でも体が強張っているのがわかった。肩が上がっている。


 「また、ここにいたのか」


 男の声。若い声。でも落ち着いている。二十代か。


 声の主が近づいてきた。黒い僧衣。背が高い。痩せている。金色の髪。若い。若い男の僧侶。顔立ちが整っている。でもそれよりも目を引くのは——目だった。澄んだ青い目。真っすぐに少女を見ている。


 グレゴリウス。


 若い日のグレゴリウス。今の大司教グレゴリウスが、まだ一介の司祭だった頃。


 「マナ。食事をしなさい。もう三食抜いている」


 マナ。


 名前が聞こえた。ティックが覚えていなかった名前。「理解してほしかった」と書いた人の名前。


 マナは首を横に振った。


 「ご飯食べてる時間がない。計算が合わないの。ここの境界条件が——」


 声が聞こえた。少女の声。高い。早い。回路の話になると止まらない声。


 私と、同じ声だ。


 「冷却ラインの三番目の結節点で、熱が逃げきれてないの。定常状態で微量のリークがある。計算上は0.3%。でも0.3%が百年積み重なると——」


 「マナ」


 グレゴリウスが膝をついた。少女と同じ高さに目線を合わせた。


 「私には、数式はわからない」


 マナの手が止まった。


 「だが、お前が一生懸命やっていることはわかる。大事なことなのだろう?」


 「大事だよ。これが直れば、誰も死ななくていい。聖女が犠牲にならなくていい。私が——」


 声が詰まった。


 「……私が、死ななくていい」


 グレゴリウスの目が揺れた。青い目の中に、何かが走った。痛み。あるいはそれに近いもの。


 「マナ。教団は——」


 「知ってる。『神の設計に欠陥はない』でしょ。枢機卿に三回言われた。大聖堂の技術院にも見せた。門前払いだった。誰も聞いてくれない。数式を見てもくれない」


 マナの声が硬くなった。泣いてはいない。泣く段階はとっくに過ぎている。


 「グレゴリウスだけだよ。聞いてくれるの」


 グレゴリウスの手が伸びた。マナの肩に置いた。大きな手だった。骨ばっている。司祭の手。剣を握る手ではない。でもその手が、セーラー服の肩に置かれたとき、マナの強張った肩が——ほんの少しだけ、下がった。


 「聞いている。いつも聞いている」


 「でも、わからないでしょ」


 グレゴリウスが口を閉じた。


 否定しなかった。嘘を言わなかった。わかるとは言わなかった。


 「……ごめんなさい」


 マナの声が小さくなった。


 「グレゴリウスは悪くない。聞いてくれるだけで十分。本当は十分なはずなのに。でも——」


 シャーペンを握り直した。


 「理解してほしいの。聞くだけじゃなくて。数式を見て、検算して、間違いを指摘して、改善案を出して。そういう人がほしいの。この世界のどこかに、この数式を読める人がいるはず。いなきゃおかしい。千年前にこの回路を設計した人がいたんだから、今だって——」


 声が途切れた。


 聖堂に沈黙が落ちた。ステンドグラスの光が消えかかっている。夕陽が沈む。青い光だけが残っている。


 グレゴリウスは黙っていた。マナの肩に手を置いたまま。


 聞いてくれた。いつも聞いてくれた。でも理解はできなかった。聞くことと理解することの間には、深い溝がある。その溝を、グレゴリウスは渡れなかった。渡る手段を持っていなかった。聖職者の訓練に、微分方程式は含まれていない。


 マナは計算を再開した。


 グレゴリウスの手が肩から離れた。立ち上がった。聖堂の入口に向かって歩いていく。途中で振り返った。


 少女が一人で座っている。石の床の上に。セーラー服で。紙とシャーペンと関数電卓と。ステンドグラスの最後の青い光の中で。


 グレゴリウスの唇が動いた。音にならない言葉。マナには聞こえなかっただろう。


 ——すまない。


 足音が遠ざかった。聖堂の扉が閉まった。


 マナは振り返らなかった。計算を続けていた。sin。cos。log。キーを叩く音が、誰もいない聖堂に響いている。


          ◇


 目が開いた。


 地下室だった。


 手の中に関数電卓があった。冷たい。マナの体温は、もうどこにもなかった。


 涙が出ていた。いつから泣いていたのかわからない。頬が濡れている。


 フラッシュライトが床を照らしている。スマホの光。白い光。聖堂のステンドグラスの青い光ではない。


 「マナ……」


 声に出した。名前を。初めて。


 マナは聞いてもらえなかった。理解してもらえなかった。グレゴリウスは聞いてくれた。でも「聞く」と「理解する」は違う。


 ザインなら。


 ザインなら理解できただろう。あの数式を読める人。理論を検算できる人。改善案を出せる人。ザインが三十年前にいたら。


 いなかった。三十年前にザインはいなかった。マナは一人だった。最後まで。


 電卓を胸に押し当てた。冷たいプラスチックが、旅装束の布越しに肌に触れた。


 この人は、死ぬまで一人だった。

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