第37話「同業者の仕事」
ザインは紙束を抱えたまま、丸一日動かなかった。
中継塔の入口に座り込んで、朝から晩まで。白い外套を敷物にして、膝の上に紙を広げて。ペンを持っていた。自分の羊皮紙も横に置いて、マナの数式を読みながら、何かを書き写している。書き写すというより——翻訳している。マナの数式をザインの理論体系に変換しているのだ。
誰も話しかけなかった。
バルトロメイが「放っておけ」と言った。「学者が獲物に食いついたときは、邪魔をするな」。経験があるらしい。ザインとの付き合いは長い。
レオンは塔の周囲を警戒していた。巡回。いつもより歩く範囲が広い。六人のパーティを守る範囲が、二人分の荷物が増えた分だけ広がっている。
イレーネは川辺で洗濯をしていた。修道服の裾を水に浸しながら、視線だけが定期的にザインの背中に向かっている。ザインが何を読み取るかを、待っている。
ティックはアカリの肩で昼寝をしていた。「ザインおじいちゃん怖い顔してるー」。怖い顔というか、集中している顔だ。
アカリは自分の撮影した回路図の写真を見返していた。スマホの画面を最低輝度にして、一枚ずつ。節電ルール違反だが、ザインが数式を読んでいる間に、自分も回路図を読まなければいけない。
マナの回路図は八枚あった。
一枚目から三枚目は中継塔の聖陣の記録。現状の回路図。これはアカリも壁を見ながら確認できる。正確だった。マナの観察眼は精密だ。
四枚目から六枚目が、問題の箇所だった。
冷却系の回路。聖陣の中で、余剰熱を——余剰魔力を排出するための回路。サキの動画で「ヒートシンクの役割」と説明されていた部分。マナの回路図には、冷却系のラインが赤い線で強調されていた。そしてそのラインの途中に——×印がある。
×印。不具合箇所の記号。JIS規格にはないが、現場の職人が使う印。お父さんも図面に×を書いた。「ここが怪しい」の印。
×印は三箇所あった。冷却系の分岐点。合流点。そして——一番大きな×が描かれているのは、冷却ラインの末端だった。行き止まり。冷却回路が途切れている箇所。
サキが言っていた「冷却系のバグ」。マナはそれを×印で示していた。そして七枚目と八枚目——バイパス回路の設計図。×印の箇所を迂回するための、新しい冷却ライン。
七枚目は概念図。大まかな配置。八枚目は——詳細図。寸法が入っている。導線の太さ。結節点の間隔。分岐の角度。
でも八枚目は未完成だった。途中で線が止まっている。バイパス回路の後半部分が描かれていない。
なぜ止まったのか。
数式の最後のページと同じだ。等号の右辺が空白。計算が完成しなかった。バイパス回路の後半部分を設計するための理論が、足りなかったのだ。
◇
日が暮れた。
焚き火を囲む。ザインが紙束を持って立ち上がったのは、星が見え始めた頃だった。
ふらついた。一日中座っていたから、足が痺れたのだろう。バルトロメイが手を伸ばしかけたが、ザインは片手で制した。「触るな。立てる」
焚き火のそばまで歩いてきた。全員の前に立った。白い外套がほこりと草の汁で汚れている。顔は疲弊していた。しかし目だけが光っている。異様な光。
「全員、聞け」
ザインの声が、今まで聞いたどの声とも違った。乾いた紙を破く声ではない。震えている。研究者が、生涯の発見を前にしたときの震え。
「この数式は——」
紙束を持ち上げた。焚き火の光が紙面を照らす。三十年前の筆跡が、炎に揺れている。
「千年の魔法理論の基礎を、一人で再構築している」
沈黙。
「千年前の聖陣設計者たちが、何十人もの魔術師が、何世代もかけて構築した理論体系。それをこの人間は——たった一人で、ゼロから、やり直している」
ザインの手が震えていた。紙が揺れている。
「しかもこの精度だ。私が一生かけて到達した理論の、一部を——この人間は独力で超えている。三十七枚の紙と、壊れた計算機だけで」
アカリはザインの顔を見ていた。
見たことのない表情だった。昨日、地下室で見た「敬意と、悔恨と、それから」の表情。「それから」の正体が、今わかった。
嫉妬だ。
ザインは嫉妬している。三十年前に死んだ理論家に。自分より優れた仕事をした人間に。同時にその仕事が失われたことに——いや、失われたのではない。封印されていたのだ。三十年間、誰にも読まれずに。
「ザイン。その人の数式、全部読めたの?」
「全部ではない。だが核心は読めた」
ザインが紙束を焚き火の横に広げた。指で一箇所を示す。
「この人物の結論はこうだ。封印の聖陣には構造的な欠陥がある。冷却系統のラインが不完全で、余剰魔力の排出が追いつかない。封印を維持するたびに、余剰熱が蓄積する。それを処理するために——聖女が、自分の体で受け止める」
サキと同じ結論。冷却フィンの代わりに、聖女が燃える。
「この人物はバイパス回路を設計している。冷却系の欠陥を迂回し、余剰魔力を別経路で排出するための回路。理論は——」
ザインが言葉を切った。唇を噛んだ。
「理論は、ほぼ正しい」
ほぼ。
「しかし後半が欠けている。バイパス回路の出口——余剰魔力の最終的な排出先の設計が未完成だ。なぜ未完成かは明白だ。この人物の理論では、排出先を特定するための変数が一つ足りない。その変数を導出するには——」
ザインがアカリを見た。
「実測データが要る。聖陣に直接触れて、魔力の流量と方向を測定した実測値だ。この人物にはそれがなかった。理論だけでは限界がある。実際に回路に手を突っ込んで、指で確かめる人間が必要だ」
指で確かめる。
お父さんの言葉が聞こえた。「機械に頼る前に、自分の指を信じろ」。
「この人物は理論家だった」
ザインの声が低くなった。
「優秀な理論家だった。しかし理論家の限界がある。理論だけでは回路は直せない。手が要る。回路に触れて、振動を感じて、温度を読んで、接触不良を指先で見つける——」
ザインがアカリの手を見た。アカリの指先を。銅線を巻きつけた指を。配電盤に触れて育った指を。
「そういう手が要る」
焚き火がぱちん、と爆ぜた。
「小娘」
聖女ではなく、小娘。
「お前の手と、あの女の数式があれば——」
ザインの目が光っていた。焚き火の反射ではない。もっと内側から。初めて見る光。
「あるいは、聖女を殺さずに封印を維持できるかもしれん」
空気が止まった。
レオンが息を呑む音が聞こえた。バルトロメイの鎧がかちゃりと鳴った。イレーネの微笑みが——消えた。消えて、すぐに戻った。でも一瞬、素顔が見えた。
ティックだけがきょとんとしている。「ころさないのー? いいことだねー」
アカリの頭の中で、何かが繋がった。
マナの理論。サキの発見。アカリの手。三人分の仕事を、一本の回路に。
「……できる?」
声が裏返った。
「やれ」
ザインの返事は短かった。でもその一語に、三十年分の沈黙への返答が詰まっていた。




